写真をめぐる話

現代表現研究所の研究項目を一覧にしていきます。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.11~2008.2.6
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(011)技の海・知の森、その間のあなたの心身
写真を撮って作品と呼べるような代物に仕上げていくのに何が必要なんでしょうね。
つまり写真を構成する要素とは何か、っていうことですね。

写真ってカメラを使いますよね。いろんな種類のカメラがありますが、カメラの機能は外の光を取り込んでフィルムまたはデジタルデータとして保存するということなのです。これが基本条件です。

写真のことを、外の光を取り込むことで絵を描く、自然の鉛筆ってタルボットは名づけましたが、光の芸術って言い方も出来るかと思います。

写真を撮るといったとき、この光をどのように定着させるかということが大きな課題でした。
その後、カメラ装置が改良されて今あるカメラの姿になっているんですが、でもカメラに取り入れる光の量をどうコントロールするのか、ということが出来栄えにおおきく影響するんです。

ですから写真で作品を創るときには光の量をコントロールする技術が必要になってきます。
写真を作るのに必要な素材はフィルムまたはデジタルデータのメモリーです。カメラの装置には、絞り値とシャッタースピードがあります。

フィルム感度と絞り値とシャッタースピードの三つを組み合わせて、いちばん素敵な状態を作り出すことが重要なんです。これは経験を積むことで微妙に細部をコントロールできるようになります。それとあなたの感性、いちばん素敵な状態だと判断してあげる感性が必要になります。

でもでもでも、でもなんです。技術力が抜群向上したからって作品が出来たとはいえないんです。
その写っている中味のことが重要になってくるんです。
珍しい、非常に珍しい物や現象が写ってる、というのは一つの価値を構成します。
それと自分の考え方を反映させる写真というのも一つの価値を構成します。
わたしたちはよく、「○○を観る目」という表現をしますが、この何かを観る目っていうのが大切なことなんです。

世の中の一人として生活していると食べたり見たりする「物」だけではなくて、食べ物や物質に様々な意味をつけて価値化していくんですけれど、その意味と価値をどのように写真に写しこむのかということが、やっぱり必要なことなんです。これをコンセプト(考え方とでも訳しましょうか)っていってますね。

つまりあなたの身体の作業として、技を磨くことと考え方を出すことの必要があるわけです。
考え方をだすことは頭脳プレーです。このように見ると写真は心身作業です。
こころとからだが一体となって写真が創られるのです。

こころには感情があります。論理を組み立てるだけではありませんよね。たいていは感情なんです。
情動っていいますけど、快不快、きもちいい!きもちわるい!っていう感情なんです。
写真を見ていてこの情動をどう発生させるか、というのが今では基本中の基本だと思います。

情動だけで見れる写真っていうのもあるかと思いますが、これは鑑賞者の立場であってですね、作家はやっぱり、技術と知的分析と情動に訴えるという三点セットを使いこなすことが必要なんじゃないですかね~~。



京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.1.25
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(010)写真を教えてあげる・写真をあげる

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが、
今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~、なんていうのは満更ウソではないですね、
お金があれば、なんでも出来ちゃうですね。

お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、
ぼくも居たけど、教育産業っていうんだそうです。

確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですから、
どうしようもないシステムなんですよね。

でも、この経済活動を成立させないところで、
写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。

教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、
教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。
何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。

その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、
人間の欲望って上昇志向ですね。

競争心ってのも必要ですね。
戦争があります。
絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、
そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、
といいながら、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸に、せめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。

この「あい写真学校&写真ワークショップ京都」、
いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が生産したもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「京都写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。
そ~ゆう価値観じゃないところで、
ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.1.25
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(009)写真学の新しい理論つくり

写真のはなし-01-
このサイトの名称が「あい写真学校・・」って言ってるのに
写真の話がちっともなかったんで、
きょうは「写真のはなし」ってタイトルをつけてみました。

ここで「あい写真学校」ってあるのは、
何か自分の内側にあるものを、写真で表現していきたいと思っているひとが、
通信で通学で学べる学校を想定しているんです。

写真を撮ってるひとって多いですね。
もう生活必需品なんですね。
でも、写真を撮っていて技術的に上達していくのはいいんですが、
なかにはもうちょっと上手になりたい、
写真ってなんなんだろうな~なんて疑問を抱きだしたりして、
そういえば写真学校ってのがあるな~
いっちょそこで勉強すっか!なんて思いだしてくるんですね。

そういうひとのために創ったのがこの学校
通信でやるのでどこにいても学べる
写真って義務教育の中で習わないから訳がわからない
雑誌や広告の大部分は写真で埋め尽くされてるのに
その解釈ができない・・・
そんな現状をみて写真学校へ習いにいっても
撮り方の技術ばっかりです。

そうではなくて自分が生きている実感としての表現をしてみたい!
そこには、なぜ写真を撮るのか、という自分のことをとらえる視点も必要なんです。
そういうことに気づいたひとが学べる学校、
そんな学校が私自身がほしかったんです。
だから、学校をつくりだしたんです(笑)
まあ、ためしに一回のぞいてみてください。
見たり読んだりはタダですからね!!(笑)


では、またお会いしましょう。

写真のはなし-02-
どうしてそんなに写真にこだわるの?
写真って光が描き出す絵ですね。
自然の鉛筆って写真発明者タルボットはいいましたけど

この光の描き出す絵ということにこだわってるんです。

文化研究という枠で世の中のことを見ようとしてるのですが、
いまの文化状況って映像イメージ氾濫時代じゃないですか。
写真っていうのは静止画だし音も台詞もはいらないものです。
イメージの原点だと思うんです。


それと文化の生成プロセスということにも興味があるんです。
いまだったらアテネオリンピックの話題ですね。
TVの画像と音声は写真からの発展形だと思うんですが
スペクタクル化するイベントを映像で作りあげていく
その背後には商業資本が商品化していくプロセスがみれるでしょ
こういうことは社会の流れだから賛成とか反対とかいう筋合いではないですが
人間の本来的姿(充実感と幸福感)をみることができるかどうかなんです。


世の中がグローバル化し個人が均一化していくのがこの先に見れるとしたら
未来が人間をロボット化していく過程にあるとしたら
いまいちど原点回帰が必要ではないのかな~と思うんです。


写真って撮って楽しんだらいいものなんですが
そして射幸心を刺激してくれるんだから娯楽として楽しんだらいいんですが
それだけじゃあないやろ~~っていう思いもあるんです。


写真学校「写真ワークショップ京都」の企画を立ててるなかでの思いです。

写真のはなし-03-
写真をとらえていくということは、
自分の生き方をとらえていくということにつながると思います。
そして自分という個人を超えていく手段として、
把握されていかなければならないのではないかと思います。


初期の写真技術のひとつが1839年に公表されてされてから、
160年余りが経ちました。
現在、これまであった写真をめぐる技術と思想の範囲では、
これから来たりくる「写真」という枠組みが、
捉えられない状況にあるのではないかと思っています。


私にはこれからの写真ってどんなのになっていくのだろうか、
というのが主要なテーマとしてあります。


また、写真表現というものは、
「ひと」が個的にかかわりながら制作していくものですから、
その創造のプロセスを明確にしていければな、とも思っています。

これはひとの内側の深~いところに疼いている欲望のありかを、
意識の上に浮上させる試みでもあると思います。


カメラと写真をとりまく様々な技術のことや、
社会とのかかわりを求める表現の歴史的な観察や、
人間の社会や文化を構成する手段としての写真の姿、
というようなことを念頭において、
これからの生き方の方向とその方法を探っていければいいな、と思っています。


人間共同体の関心ごとが年月の経過とともに変容してきて、
現在その関心ごとの広がりは「見えるものと見えないもの」のなかで、
見える宇宙見えない宇宙、見える地球環境見えない地球環境、
見える社会現象見えない社会現象、見える自分見えない自分・・・・・。
さまざまな見えるものと見えないものの狭間で、
ぼくたちは生存しているのです。


写真はいつも、見えるものを捉えることで、
見えないものを見せようとしてきたように思います。
写真という手段は、目に見えるものしか捉えられない、という宿命を知りながら、
この見えないものにアプローチすることが、
それぞれの時の現代的なテーマでもありました。


これは現在もやはり主要テーマであり続けるようです。
そこで、大切なことはぼくたちが写真というメディアを使って、
何をするのかということです。

現在時点で科学技術が明確にしている事柄を取り入れながら、
その背景を創り成す思想というイメージ世界をふまえて、
それぞれの生き方、生存のあり方、
そして「ひと」と「ひと」との関係のあり方を、
模索していくこと、とでも言うことでしょうか。


これからの写真を使っての表現方法の基底には、
生命というものの根源を考えイメージしていく姿勢と、視点をもって、
こころ(精神とか内面といわれるもの)の安定、欲望の実現をめざすことがあります。


これは、「こころ」の深い処で、
現実表層を造っている世界というものを深い構造として捉え、
情動のレベルで新たなる安定や喜びを見いだしていくことではないかと思います。


写真を表現手段として手に入れるということは、
自分のいる場所を探しに出かけていくこと、
そしてその場所を確認していく作業でもあるのではないでしょうか。


これらのことを言葉でいうのは、ある程度簡単なんです。
それを具体的な作品にしていくことがじつは大変なことなんです。
でも、その大変だ!ということも十分に知ったうえで、やっていくしかないですからね。


まあね。わかる、感じる、ところからはじめていきましょう。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagaw shigeo 2004.6.7~2008.1.25
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(008)写真を越えて新たなアート分野へ

写真は記録であるという考え方で、
これまでの写真が撮られてきた歴史があります。
ドキュメンタリーという考え方です。

戦争の現場や公害発生の現場で、また都市の中で、農村の中で、
さまざまな場所でたくさんの写真が撮られてきました。

その一方で写真はいつも美術と密着しながら、
美術(特に絵画)とは別の考え方で、
レンズの特性を生かしたり細密描写をしたりしてきました。

それらはいつもカメラという道具を使って、
現実を切りとる方法として定着してきました。

ところで20世紀の後半になると、
美術家と呼ばれるひとたちが、
作品つくりの道具としてカメラを使い始めました。
写真装置を、それまであった枠を越えて使い出したのでした。

これには一枚の紙の上に写しこまれる写真としての、
形式は変わらないけれども、
その考え方が美術の潮流の中にあるというもの、
また写真そのものを加工して作品としたもの、
紙の上ではなく立体面に写真技法を使ったもの、
などいろいろと工夫がなされてきました。

そして今や、写真という概念は非常に変形してきたように思います。
現代美術という分野が、かってあった美術セオリーを覆してきたように、
写真においても、かってあった写真セオリーを覆してきて、
今やもうセオリーが崩壊してしまった観があります。

これはなにも美術や写真の中にだけ起こっている現象ではなく、
人間をとらえる視点、これまであった哲学的視点、
近代科学の枠組み、国際政治世界の枠組みの変更など、
かってなかった程に変化しています。

写真は、これまでの写真の枠組みを越えて、
新たなアート分野に入ってきています。

新たなアート分野とは
、高尚だとか低俗だとかの判断基準ではないところで創造されるもの。
新たな、しかしかってあった類似形の、人間関係を結ぶ手段としての道具。
こういう場所に来たんだと思います。

特にいま、生命という言葉をキーワードとして、
ここに近代の合理主義や機能主義の考え方が封印してきた、
人間や動物や植物たちの精をよみがえらせるための方法が
模索されていますが、
写真にあってもその例外ではないと思います。
写真は生命活動であり、生命活動はアートすることであると思います。

-ポイント-

◎現在は「生命」というキーワードのなかで、こころ・自然・欲望がテーマです。

◎写真は生命活動であり生命活動はアートすることです。

◎食べることが身体維持の基本的営みとすると、
アートすることが精神維持の基本的営みです。

この食べることとアートすること、
二つの基本的営みが一体のものとしてとらえていく視点が、
これからは求められていくのだと思っています。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
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007)写真はおもしろい

いま写真がおもしろい!!
デジタルカメラで気の向くままに撮って見てまた撮って見て、
そこに友だちや大切な人がいれば
もっとおもしろい気持ちになるよね。

写真ってコミュニケーションのツールなんです。
でも、どうしたら上手になるのかわからないと悩み始めたひとへ贈ります。

写真はあなたの心です。心を表現するには表現する技術が必要です。

ところで「心」とはいったいなに?どんなものなのでしょうか。
いま、写真の心をめぐって、熱い議論が交わされつつあります。

京都写真学校では、
時代の本質を見つめ体感するための、カリキュラムを中心にした、
感じられる写真の創り方を勉強します。

写真がなぜ面白く感じられるのかというのは、
直接人間の、つまりあなたの心の奥深くに眠っている神秘さとか
感動を起こす感覚とかが目覚めてくるからだといいます。

写真というのは撮影技術をマスターしたからってわかるものではないです。
ますますわからなくなってくるように思うのが、
誰もが体験することではないですか?

なぜ、そうなるのかといえば、
写真を撮ることで何かを表現することなんですが、
それが自分の生きてるってことに直結していて、
生きているっていう快感なんです。
でもその意味を見きわめることって、
実はなかなか大変なことです。

これまで偉大な芸術家って呼ばれている人たちが
創造力をかきたてられた源泉は、
苦悩の奥深くにある快感を求めてきたのです。
それがひとを感動させるのではないでしょうか。

写真を始めたあなたは、ね。
つまり、すでにその入り口に立っているってことなんです。
祈るということではなくて、
あなた自らがいのちの恵みを受けに前へ進み出る、
というのが写真の行為そのものなのです。

写真が面白いと感じられるのは、
前へ進み出ることにつながっているからです。

でも、やればやるほど何を撮ったらいいのか、
どうしたらいいのかわからなくなるのも事実なのです。
ですから、その解決の糸口をほかのところから導いてこなければいけない。
自分に対して他者の存在があって、そこに境界があって、
この境界を越えていくコミュニケーションの方向、
自分の心を開いていくということなのですね。
そのための学習をすることが必要なのです。

写真を撮って人に見せたい、見てもらいたい、っていう欲求は、
このコミュニケーションを求めていることなのです。
ですから、あなたが撮った写真を支えているルールというか意味というか、
そういうものを自分で考えていかないと相手は感じてくれない。

写真を勉強するってことは、
そういう感じをあふれさせるということなのですが、
どうもこれまでの写真学校では技術的なことは教えてもらえるけれども、
喜ぶ快感はあまり教えてくれなかった。
むしろ写真を創っていくことは苦しいことなんだ、と教えてきたのです。

時代環境が変わってきて、
新しい生き方っていうのは
、この快感を快感として認めてあげることで、
これを求めていくことです。

新しい写真の勉強というのは、
そんな新しい時代の向こうにいくための心・気持ちをつむぎだしていくことです。
そういう新しいタイプの写真家を育てたいと思っているんです。


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