現代表現研究

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京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
nakagawa shigeo 2004.6.9~2010.3.14
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京都写真学校第五期 2009.5.10

写真とこころ-心-

ここでは、<写真っていったい何なの?>という、わかったようでわからない話を、いろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことで、おぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を、少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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20130526

写真で気持ちを伝える

人が自分の体験したことを人に伝えようとするときってどうしますか?

会って言葉で話すというのがあります。
電話で話をするということがあります。
手紙、最近ならメールですね、これで文章にする、ということがあります。

この方法の中心にあるのは、音声(言葉)とか文章(書き言葉)です。
言葉や文章で状況説明すると同時に、体験したときの気持をつけますよね。

たとえばこんな話:
さっきね、道を歩いていたら乗用車と単車がぶつかるのを目撃したんです。
単車に乗ってた男の人がすっ飛んで、ああ、怖かったな~、心臓ドキドキしてしまって~~

今日は「写真で気持を伝える」という題なんですが、
写真では、交通事故が起こった瞬間の写真は理屈として撮ることができます。
でも、たいがいはその後の写真ですね。
ロバート・キャパっていう写真家が、
弾があたって倒れる瞬間の兵士を撮った写真がありますが、
これは運よくカメラを向けていたら、兵士が倒れた、その瞬間が撮れた、
だから貴重な写真として今に残されていて展覧会などで観る機会も多いですね。

でもその倒れる兵士の写真を見て、現実として写真家の気持まで伝わってきますか?
たぶんそこまで感じない人が多いんじゃないかと思います。

写真って具体的な光景が写ってるから状況ていうのは判りやすいです。
でも、撮ったときの気持を伝えるっていうのは、きっと苦手なんですね。

苦手だといいながらも、写真を撮ってるみなさん、気持を伝えたいと思っているんですね。
そうなんです、写真って、こころとこころのコミュニケーションなんです。
でも、これは究極の写真のあり方を言っているんだと思います。

客観的な事実を伝えることは得意です(といいながらこの言い方には異論があります)
でも一応ここでは、事実を伝えることが得意な写真、としておきます。

で、写真を撮った人のそのときの気持、これを伝えようとするんですが、
おっとどっこい、そうは簡単にいきませんね。
言葉や文章なら「哀しい」「楽しい」の言葉で伝わることが、写真ではなかなか伝わらないです。
「哀しい」とか「楽しい」なら、お葬式の場面とか、子供が遊園地でいもいっきり遊んでる表情、
これで気持が伝わってきます。
その場面を共有することで、一定の社会的に創られた気持の読み方を知っていますからね。

でも、そうはいかない場合が多いんではないですかね?
写真に写ってるものは判る(判らない写真も多々ありますが・・・)
でも、その写真を撮った人の気持がどうも判りにくい・・・
気持が伝わってこない・・・

でも写真ってやっぱり気持を伝えることなんだと思っています。
わたしとあなたが、気持や感情を共有することだと思っています。

そしたら、どうすりゃいいのでしょう?
これが、本題です。
今日は問題提起だけした感じですね。
追って、ああでもないこうでもないと、ぐるぐる回りながら、
わたしの気持をあなたに伝える方法を探っていきましょう・・・・

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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2007年10月第三期写真セミナー風景

写真を私に見せる?

前回は、写真を誰に見せるの?ということでしたが、
そこでは、あなたに見せる写真、ということを導きました。

写真は自分を見つめていく鏡だ!っていうのが今日のテーマです。

自分っていったい何、または何者なんだろう?って・・・
こんな疑問を抱いたことありませんかね。
社会の器の中で相対として他人がいて自分がいる。
その自分っていう中味のことです。

写真に限らず芸術という行為にもおよぶことなのだと思っていますが、
この「自分を見つめる」ということが必要なんですね。
これは解けそうでなかなか解けないですよね、きっと。
でもこの「自分とはなに?」っていう問いを解いていく道筋が必要なんです。

他人のことはよくわかる、といいます。
他人を理解するのには、もちろんその時々の価値観に基づいて、
それに照らし合わせて、外面のこと、どこどこの学校出てるとか、
どこどこの会社でこんな仕事していて、立派やね、とか。
その反対の「けなし」もやりますよね。

でも自分のことを自分で考えてごらんなさい。
たしかに家族がいて、学校に行っていて、アルバイトして・・・とか、
自分の外回りの環境はわかります。

でもでもね、ここでも、そんな自分っていったい何?っていう疑問がでませんか?

写真を撮るっていうのは、いろいろ考えるんです。
何を撮ろうかな?自分の好きなアレを撮ろう!
そうして撮ったモノをみて、そのモノの自分が撮った意味を問い、
社会通念の枠にそって理解していきます。

やさしい気持を表現したい!楽しい気持を表現したい!
そうして、そのやさしさや楽しさの中味を撮ろうとするんです。
自分との対話っていいますが、写真というものを介して対話するんです。

こうして自分を知っていくプロセスのなかで、
作り出されてくる写真が作品となって残るんですね。
けっきょく自分とは何?っていう
最終の解答は見つけられなかったとしても、
自分の撮った写真を自分に見せていくことで自分を知っていくことになる。

まあね、判ったような判らないような、ぐるぐる回りのお話ですが、
自分に注目することって、けっこう現在的なテーマなんですよ!

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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写真ワークショップ京都開講風景 2008.6

写真をだれに見せるの?


みなさん!自分が撮った写真って誰に見せます?
写真撮ることを仕事にしている人は別ですが、家族とか友達とかが多いですよね。
でも、仕事にしていなくっても、俗に趣味で・・・っていって
写真を撮ってる人がたくさんいます。

ここでは、プロとアマチュアなんて区別はしませんけれど、
写真を撮り出して、写真コンテストというのが方々であって、
そのコンテストというのに応募してみようかな~なんて思い出して、
写真グループの一員となって、せっせと写真を撮りはじめる。
また、写真を教えてくれるスクールを探して学ぶというのもありますね。

いずれにしても写真を専門に教える学校を出た人があり、
専門の学校は出てないけれど写真を撮ってる人があり、
写真をたしなむ人は、もうべらぼうに多い!

で、撮った写真を誰に見せる?っていうのが今日のタイトルなんですが、
ホント、誰に見せます?
家族の中でだけというのが多いですか?
旅行とかの記念写真類は旅行に同行した人がみますよね。
というように、身内や同僚や友達といった関係者の間で見る。

でも、コンテストに応募するとなると、第三者に見せることになりますね。
つまり、あかの他人さんに見せる、ということですね。
そのうち写真を撮ることが仕事になったらいいな~って思う人も多いです。
でも、これはほとんど実現しないです。
でも実現させる人もいますよね。

写真を撮ることが仕事になるというのは、見せる相手は不特定多数です。
雑誌とかギャラリーとかのメディアを通じて不特定多数を相手にします。
わたしは最近、写真をホームページに発表しています。
新しく学校をやろうとか、自分の考えを知って欲しいとか、
見知らぬ人に見てもらって、私の方へ振り向いてほしい!との願望があるからです。

このように見てくると、見せる相手は、
身近なひと=私とあなた=二人称の関係の中で見せる
知らない人=私と第三者=三人称の関係の中で見せる

でもでも、私が撮って私だけが見る写真っていうのありませんか?
私だけの秘密の写真?!=一人称の関係の中で見せる

この見せる相手の想定で、最近の傾向はというと、
二人称の写真が多くなっていますね。
「わたしとあなた」の関係の中に写真がある、という図式ですね。

写真の現在っていうとき、この「わたしとあなた」という水平感覚ですね。
これが基点であり、ここからの写真作りが始まるような気がします。
見せる人が見る人である、という関係のなかです。
二人の関係は、カメラを持ったか持たないかではないんです。
二人の関係のなかにカメラがあるという関係なんです。

このような写真の移転には、
上下から水平へという人間関係の変容も背後にあると認識しています。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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あなたの写真を撮る目的は何ですか?

何のために写真を撮るんですか?と問われて、あなたは何と答えますか。

写真が社会の記録媒体として重宝された時代がありましたが、いまや社会の記録媒体の主流はビデオ映像ですね。
ということは写真が社会的なステータスから使われ方の位置が変わったんです。

その変わり方というのは、よりプライベートなものとして写真が使われるようになった。
このプライベートに使う、ということが大事な視点だと思います。
個人のコミュニケーションの手段として、写真を使う時代ですね。

カメラもデジタルカメラが主流になってきました。
パパやママは、わが子の写真を日記代わりに撮っています。
いわゆる家庭アルバムに収められる家族の記録です。

また、友人とともにいるときに写真を撮りますね。
居酒屋でパーティーをしてるときなんて気分も乗っているし、もうふざけ気分で写真をいっぱい撮りまくりますね。

このような現状は、写真が芸術か否か、なんて無効であるようにも思えます。
あるいは、写真は記録である、これはまだ生き残っているかも知れないですね。
大きな物語の記録じゃなくて、個人のプライベートな関係の記録です。

個人のプライベートな関係っていうのは、おおいにテーマとなります。
大きな物語の記録から解き放たれた写真が、プライベートな関係になるんです。
そうすると歴史を見る視点も変わってくるんじゃないかな~。
日々作られるニュースの視点は個人の感情を刺激します。
特に個人のプライバシーにコミットするニュースねたですね。

報道の視点が個人のプライバシーに立ち入ることと、個人がプライバシーを公開することとは意味がちがうですね。
写真が撮られて公開されるとき、この意味の違いがなんであるかを語ることで、写真が家庭アルバムの位相から、時代の記録になる位相へ変わっていくように思います。

さて、あなたが写真を撮る目的は、いったい何なのですか?

なぜ写真を撮るの

-1-
なぜ写真を撮るの?どうしてこんな設問を立てたのかというと、だれもが何気なくパシャパシャとシャッターを押して、写真を撮っているんですけど、写真を学ぶことのなかで、たいてい、この問題に突き当たってしまうからです。
「なぜ」写真を撮るのか、なんて思っただけでも難しいじゃないですか。だから、普通はこんなことは深く考えない。でも、まま、行き当たってしまう習性のボクは、このことを考えるんです。俗にゆう理屈ってやつです。

あい写真学校ってのを運営してるんですけど、そこには技術習得だけではないですよ~って標榜してるから、あえて今回は、この問題を取り上げたわけです。で、あらためて、なぜ写真を撮るの?ってキミに聞くけど、どうですか?なにか答えが導けそうですか?

算数や理科は、答えが決まってるから、その答えに向けて問題を解いていきます。ところが、なぜ写真を撮るの?っていう問題は、決まった答えがない問題なんだと思っています。同じような問題で、判りやすくゆううと、キミが男だったら誰かしら女の子を好きになる、女だったら男の子を好きになる。なぜ好きなの?って聞かれて、自分で考えてみて、あれやこれやと想いめぐらしますけれど、どうですか?本当のところ、なぜだかわからない・・・。

ボクは男だから、男の立場でいいますと、好きになった女の子、着ている服が似合うから・・・とか優しいから・・・とか、なんとなく相性がいいんだよな・・・とか、あれやこれやと納得できる答えを考える。でも、やっぱり本質のところわからない、これが実情ではないでしょうか。

いわば、なぜ写真を撮るの?って聞かれて、あれやこれやと考えをめぐらすけれど、やっぱり本質のところわからない。わからないということなんだけど、ちょっといろいろな観点から、考えていきたいと思うのが、このシリーズのもくろみです。

-2-
なぜ写真を撮るの、って聞かれて、答えられることに-好きだから-という答えがあります。好きなもんを撮る。現代では、これが基本だと思っています。もちろん頼まれて撮る写真ってのがあるわけです。プロカメラマンというのは、頼まれて撮るわけです。頼んだ人とか会社とかが、それでお金をくれる。でも、この人たちは、好きなもんを撮っておればいい、なんてことじゃない。そのうち日本では1970年代の後半ごろからだけど、好きなもんを撮って、売るということが出てきた。オリジナル・プリントといって、写真を美術作品と同じレベルで売買するシステムです。

ボクの好きなモノは、キミも好きなモノだとしよう。ボクが撮ったモノが、キミも好きで、だからキミが手元に置いておく・・・。もちろんお金を出して買うわけです。売ってるところはギャラリーです。ところがここに大きな落とし穴があるんです。写真が商品価値である、という落とし穴です。どうゆうことかとゆうと、好きでもないけど買ってもっておれば、値段が上がる。とか、お金で置いておくと、いろいろとヤバイから、金を買って置くようにして写真を買っておく。でも、このシステムはうまく動かなかった。

元に戻って、なぜ写真を撮るの、と問われて、撮るときの快感がいい!なんてゆうのもあります。たとえばカメラを持って撮影会にいく。撮影会ってのは企画してくれる処があるから、そこへお金を払っていくわけです。ヌード撮影会・・・いまだったら、アイドル撮影会、そしてもっとディープなモデル撮影会もある。こりゃ裸の女の人を見たい、撮りたいという欲望を刺激してる、商品を買う、ということです。撮影は生、実演、生舞台です。そりゃ~迫力あるですよね。

もう一度元に戻って、なぜ写真を撮るの、と問われて、好きだから、キミが好きだからキミの写真を撮りたい!ずばりそのことです。基本的には、好きなモノを撮るわけだから、このモノがキミなのだ!そうでしょ、写真を撮ってる時ってワクワクしなくちゃ撮れませんもんね!といいながら、写真を撮るときには冷静さが必要だ、と云います。被写体の、つまり撮るモノの、細部を見て撮れ!と云います。ワクワク、そわそわじゃ~写真が撮れない・・・。これがホントかウソか、まあ考えてみな!

-3-
写真を撮るなかに、好奇心という本性があるように思います。写真は、写真を撮る、という行動が伴います。自分が知りたいことについて、知ろうとする行為なのかも知れない。写真が、記録であるとか、アートであるとか、そうゆう論は、行為するための意匠であって、論を交わして写真を撮るとゆう衝動ではありません。写真を撮るという身体の行為は、知りたいとゆう好奇心がそうさせるんだと思います。

ヒトが生きていくには、エネルギーが必要です。エネルギー源は、第一に食料です。食べることです。もちろん住居をつくる必要があり、共同生活を営む必要があり、その中に食料の確保があります。そうして子孫を残すための行為があります。食べて寝てセクスする。これがヒトの生存のための条件なんだ。でもこれだけじゃ、動物行為です。ヒトがヒトたるためには、創造する行為があります。関係性の創造なんてことも考えますけど、目覚めた意識は、他を知りたい欲求を持ちます。

他を知りたい欲求は好奇心となって、わたしたちを欲望にかりたてます。このときにカメラがあるから、カメラを持って、知りたい、を満たそうとする。写真を撮る、という行為の底流には、このような欲求を満たす道具として写真がある。このように考えるわけです。

いまの時代は、お金を出してモノを得る選択の時代です。生活必需品から高価な装飾品まで、持ちえるお金で、何が得られるかを選択する時代です。この商品のなかに、写真を撮る道具、カメラがあるというわけです。好奇心を満たすために、新聞読んだりテレビを見たりします。これらは、好奇心を満たすための情報を受動的に得るわけです。で、写真を撮る、というのはむしろ能動的、みずから行動していく満たし方です。
2006.2.7 nakagawa shigeo

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