中川繁夫の記録

中川繁夫のブログです。

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と映像
nakagawa shigeo 2004
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写真と映像

写真の発明が1839年ですね。
それから半世紀のちの19世紀末に映画が作られる。
そこから写真術の発展系として映画が誕生してきます。
ここで「写真」は静止画で、「映画」は静止画の連続したもの(動画)として捉えます。
静止画と動画という区分でいいですね。
このことが基本です。

人間の欲望という側面から観ると、
静止画より動画のほうが動く現実に即していますから、
動画のほうにリアリティを感じるようになりますね。
古いメディアがが新しいメディアに淘汰される。
とは言いながらも静止画である写真が存続しています。

写真も映像(ビデオ映像含む)も並立しています。
社会の商業システムでは、印刷媒体と電波媒体のふたつの系がありますから、
並立は当然といえば当然なんですが・・・

個人ユースとしての写真と映像という観点から見てみます。
どちらも工業製品としてのカメラとメモリ(フィルム含む)を使います。
個人の利用の仕方については産業体からの供給によって選択する。
そこに写真カメラとビデオカメラが並立してあります。
いまなお写真カメラが衰退しない状況です。

単に経済システムの生産と消費という図式のなかでの解析だけでは測れない、
写真需要の秘密が「写真」というものにあるのだろうと思います。
このことを解き明かしていくことが必要だと思っています。

システムとしての美術館や映画館やお茶の間TVスタジオのあり方だけではないもの。
人間の欲望の根源を探り出す方向での解析が求められてきていると思っています。
この「人間の欲望」という観点からの認識が「写真」に求められるとき、
写真の学習はようやく社会性をもつことになりますね。
つまり写真のことを考えるのには、
写真以外のことを知って写真に照射しなおすという視点です。

もちろんこれは映像をテーマに考えるときの視点でもありますけれどね。


☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真を展示する場所
nakagawa shigeo 2004
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写真を展示する場所

デジタルカメラの時代になって、ネットワークも整備されてきて、ホームページやブログ、それに写真アルバムがネットワーク上で簡単に作れるようになっています。写真を展示する場所は、かってはギャラリー壁面でしかできなかったのですが、いまやネット上にて展示するのがメインになったといえます。

かって自分の写真を展示するには、一定の水準を要求するメーカーギャラリーとか、お金をだせば展示できる貸しギャラリーとか、経費がかかりました。ところがデジタル写真の制作、ネットワーク上での展示には、ほとんどコストがかかりません。これは革命的状況だと思います。

明確にデジタル写真時代になって、環境が大きく変わったと認識します。およそ100年前、ハンディカメラが発売されて、スナップショット手法が主流となりました。いまや携帯電話のカメラ機能で、誰もが常時手許にカメラを持っている時代です。携帯電話からそのままブログに写真をアップできることが出来ます。写真制作と写真展示の場所が、ここにきて大きく転換しているのです。

2007.6.22 nakagawa shigeo


写真が紙(印画紙)の上に定着された擬似イメージだということで壁面に飾られる。
ギャラリーやミュージアムの壁面に展示される。
これが一般的な写真の展示方法でした。
いまの時期、あえて過去形で書くしかない現状なのかも知れないですね。

デジタル写真の時代だからネットワーク上で発表するというのも手だと思います。
とはいえ写真を撮る人が発表する場として、まだまだギャラリー優先ですね。
具体的な数値を基に分析してるわけではなく雑感ですけどね。

といいながらもホームページにも作品いっぱい発表されています。
たしかにギャラリーでの展示というとそれなりにセレクトしますから、
それなりに見栄えする写真となっているようです。
ホームページに発表される写真は家庭のアルバム帖といったところかも知れません。

善し悪しべつにして、いまはこのふたつの展示する場所があることの確認です。
美術館を頂点とする場というのは作品収納の場として歴史がありますし、
それだけで価値を構成する仕組みを創っているんですが、
この価値の突き崩しっていうのがまもなく現れてくるのではないか、という予感がします。

つまり写真の価値という意味の見直しですね。
大きくは1960年代に立ち現れた価値軸変更の時代のように・・・
いまあらためて写真の価値軸変動の時代に入ったという感じです。

この現象は写真に限ったことではないですね。
1968年問題という言い方でわたしは見ておりますが、
社会制度のありかた論が活発になってきている背景をもって、
当然、写真のありかた論に及んでしかるべき時期がきている。

ちょうど新しい展示場所としてのデジタルネットワークが写真において意識されるように、
写真を撮る人と撮られる対象の位置関係もわたしの内部に向かうことがいっそう顕著になっています。

きっと、写真の社会的存在の位置が微妙にずれてきているんですよね。

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真は芸術?
nakagawa shigeo 2004
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写真は芸術?

さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな~と見渡したところ、ありませんね~
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。

ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな~と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?

写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。

ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。

平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。

一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。

そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。

さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな~なんて思っています(笑)


☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の定義
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写真の定義
いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ~
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)

でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。

写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。

これって正解ですか?どうなんでしょうね。

とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。

こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ~

実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ~

こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?

そんなことどうでもいいんや~写真は写真なんやから~ね~
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね~

結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。

写真の理論

ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。

・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね~写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね


なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか~
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか~
こんな答えを用意しています。

わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。

社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。

写真の中味

写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。

そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。

この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな~~、って詮索して何かを撮り始めます。

大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。

現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。

プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。

生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。

その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。
nakagawa shigeo 2004

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真のテーマが向かうもの
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写真のテーマが向かうもの

写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。

nakagawa shigeo 2004



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