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 1979年12月に、聖家族の壁面を使った「釜ヶ崎写真展」を開催します。たまたま1979年であったわけですが、そこに至るまでの数年間、そしてその後、という話になります。ここでは、1979年12月に至るまでの経緯を記しておきたいと思います。ということで、1977年には、関西二科会写真部の会員名簿に中川の名前が載っているのです。当時のほとんどの資料を捨てているのですが、この名簿が資料として、手元にあります。いまでも二科会写真部という団体は、全国レベルで、カメラマンにとって、写真表現者としての頂点にたっている様相を見せています。どうも、なにか、違うな、と思い出すのがこの1977年から1978年ごろでした。どこがどう違うのか、ということはわからないけれど、違和感を感じていた。いや、こんなところにいていいのだろうか、といった違和感でした。いま思うと、それを遡ること10年近く前になりますが、1970年前後の学生運動の感触を忘れ得ないままに、至っていたのが、違和感の基底ではなかったかと思えます。

 1978年の秋、大阪を取材の対象にして「街へ」を再開します。西成区の釜ヶ崎へは正面からではなく、裏から入っていったことになります。天王寺から飛田のある山王へ、そこから堺筋を渡って三角公園の方に入っていきました。このルートはたまたまで、意識して裏から入ったのではなかったです。それからのことは別に書きますが、1979年の夏に、釜ヶ崎夏祭りのなかで「青空写真展」をやりたい旨を申し出てやることになりました。これが8月でその流れの中で、若い労働者が京都に聖家族って場所があるから、行こうというので、連れて行ってもらったのです。そのときに聖家族の壁面に数枚の写真「白虎社」の野外公演スナップが貼られていました。その後に、白虎社と遭遇するとはその時には思いませんでした。飲み屋「聖家族」は石山昭さんが代表で運営していて、話を交わすうちにぼくのことを信頼してくれて、ここで写真展をやろう、フルースペースを創ろう、との申し出に応えてもらえたのです。ただ残念なことに、1980年夏、場所更新の礼金が用意できなかったというので営業が続かなくなり、閉鎖となったのです。

 1979年12月、1980年3月、ここで釜ヶ崎の写真展を開催します。壁面に両面テープの印画紙を貼り付ける。六つ切り200枚ほど貼ったかと記憶していますが、天井にまで及びました。けっこう迫力あったと思いますが、ぼく自身としてはけっこう白々しい気持ちだった記憶があります。写真の関係者では浪華写真倶楽部の関岡昭介さんと伊ヶ崎氏が来てくださって、以後、関岡さんの職場へ、何度か尋ねていきます。そごうの眼鏡売り場だったかで仕事をしておられたのです。若い写真愛好者が、何人か聖家族へ観にきてくれました。自主ギャラリーを持ちたい連中でしたので、話を持ちかけましたが、彼らのイメージは「飲み屋」ではなく、自前で借りる専用空間イメージのようでした。東京では自主ギャラリーが話題を呼んでいて、その流れに乗る感覚でしたが、飲み屋の空間では彼らのイメージに合わなかったのだと思います。聖家族は、当時ヒッピーと総称される若者たちの聖なるイメージの象徴的な名称だったようで、そこは普通の青年男女でしたがフリーな生き方をしたい意識の集まる処でした。