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 1979年12月、京都の「聖家族」で中川が釜ヶ崎写真展をするという告知を、プレイガイドジャーナル(俗にプガジャと言っていた情報誌)に載せてもらったところ、その記事を見た「テレビモア」という放送局が取材したいと言ってきた、と石川昭さんから告げられ、約束の日時にビデオカメラを担いでやってきたのが「テレビモア」自主放送局を名乗っていた岡崎純さんと瀬川恵美さんでした。放送局といっても電波を飛ばす免許は持っていなくて、ビデオ作品にまとめて、上映会などで発表するという試みをやっていたグループでした。2018年の現在であれば、通信回線を使って、ライブ放送でもできる時代ですが、ほぼ40年前のことです。まだ若い二人で、瀬川さんは20歳になっていなかった。運営資金は、瀬川さんがシンガーソングライターをやっていて、ミナミのスナックで日に五万円を稼ぐという女子でした。そのときは天王寺の賃貸マンションを借りていて、岡崎、瀬川の他に、レーザー光線を放つ男子がいました。シンセサイザーを使い、レーザーを使ったステージをショーとして演出する、といったことをやったりしていました。その彼、彼女と、親しくなります。中川は30歳を過ぎていたし、瀬川恵美はひとまわり年下でした。瀬川恵美は、どうしたわけか釜ヶ崎をビデオ取材していました。キリスト教系の故郷の家だったかに出入りしていて、労働者を取材していた、ということに中川は驚いたのです。

 1982年になって、グループは「デルタ」という会社組織になって、長堀橋の近くのマンションの一室を賃貸するようになって、その一室を自主ギャラリーにしようとの話になりました。岡崎純がいうのは、かねてから中川さんが自主ギャラリーを持ちたいと言っていて、いよいよできることになったよ、ということで、写真と映像のギャラリーとしてオープンすることに話が決まり、当時、大阪を中心に若い写真家たちが集いだしていたので声をかけ「ザ・フォーラム」というギャラリーを開設したのでした。賃貸のマンションは家賃が20万円という豪華なもので、デルタは、小松左京さんの紹介でジョーシンの売りが管理とメンテナンスで月額50万円の契約を結べることになったのでした。この自主ギャラリー「ザ・フォーラム」については別に記述しますが、岡崎純の彼女だった瀬川恵美が、釜ヶ崎へビデオカメラを持ち込んで取材しているということで、取材の現場には立ち会わなかったけれど、記録された映像を、見せてもらいました。心がすさむ、釜ヶ崎取材には心が痛む、そういう作家としての心情を、共に釜ヶ崎で写真を撮っていた中川に、共感されていて、なにかと懇意にしてくれたと感じています。1983年の初夏に、瀬川恵美が自死するのですが、心情的に一番身近に中川がいたのかも知れません。

 岡崎純は「東方夜想会・白虎社」をビデオに収め、映像作品化しておりました。その流れの中で、中川が白虎社の取材に入ったように、思い起こされます。聖家族の壁面に写真が貼られていたのを思い出しますが、最初はライブハウスでの公演取材から始まったのですが、京都の稽古場へ出入りするようになり、練習風景などを写真に撮らせてもらっていました。公演には楽屋から取材させてもらって、いま、貴重な資料だと自認しています。ここに掲載した写真は、その白虎社の夏季合宿のときに撮った岡崎純と瀬川恵美のお二人です。写真カメラマンは中川が、ビデオカメラは岡崎純と瀬川恵美が、1982年夏、その合宿、鞍馬の奥の百井にて、古民家を使っての合宿でした。