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 1982年9月13日、いま!東松照明の世界・展の大阪展が開催、オープニングセレモニーがありました。たまたま中川が撮ったテープカットの写真が残っているので、これを載せます。全国を巡回する写真展で、各地に実行委員会が作られました。大阪においてもその準備会から実行委員会、呼びかけからおよそ1年弱の活動を経て、二か所で同時開催するという結果となりました。通天閣と大阪府立現代美術センターで、同時開催、写真は通天閣のものです。1981年の夏に、たしかアサヒカメラの誌上に大阪展実行委員会に参加案内があったので、すでに映像情報を発行していた中川が、参加する旨の葉書を送ったと記憶しています。10月になって準備会を開く旨の通知があって、その会場は大阪写真専門学校の教室でした。その会場に赴くと、初めて会う人ばかりで、何人かから中川の名前を知っていると言われたのです。後にいろいろとムーブメントを立ち上げるメンバーがそこに集まっていたのです。そこに集まっメンバーのそれぞれに、それまでの写真に関わることをしていた人で、大阪写専の人、オンザシーン誌の発行に関わっていた太田さん、独立した会社を取り仕切っていた畑さん、京都で写真ギャラリーを始められていた岡田さん、等々を知ることになったのです。もちろん実行委員会のメンバーはそれ以外の人で、学生の時から写真の運動に関わっていたメンバーとか、でした。それぞれに立場が違うメンバーが集まって、実行委員会が結成され、具体的な準備活動を行っていきます。

 全国レベルでの委員長だったか責任者は写真批評家の福島辰夫氏でした。東松照明氏のそれまでの写真500点を一堂に集めての写真展で、アサヒカメラ誌がいくつもの特集を組んでいたと記憶しています。たまたまというか偶然というか、この年の大晦日に写真家東松照明氏が、京都取材のために京都に宿を取られます。巡回展の実行委員会が立ち上がったのと京都取材を始められるのは、偶然のことだったと、中川は現在、考えています。大阪展において、内部での確執があった、と記録されていることもありますが、その確執が明らかにされた形跡はありません。ここにその推移を、中川の見たところから論じておくのも、必要かと思います。それは写真展のための実行委員会運営についての東松照明さんの見解で、その運営の流れについて否定的だったのです。何度もの東松照明さんと中川の会話で、中川が記憶するところを述べますが、東松照明さんは実行主体の背景がわからないというのです。背景とは具体的なことはわかりませんが、東松照明さんが推測するところ、かってあった学生運動のセクト(党派)が動かしているのではないか、というのです。そういう運動の流れの中に自分の写真を使ってもらうのには、否定的見解だったのです。結局、大阪展は二か所で行われたところですが、実行委員会の途中に、実行か中止か、という話になり、福島辰夫氏もまじえて意見を交わしましたが、実行することに採決された経緯があります。中川は、中止の方を主張しました。東松照明氏の感情の問題にまで踏み込み、東松照明さんの意を汲み取っての中止主張でした。すでの1980年代に入っていて、1960年代からの学生運動のセクト争いの様相を、実行委員会のなかに持ち込みたくなかった、というのが本音です。
(続編あり)