PICT0543
 1981年12月大晦日だと東松さんはおっしゃったが、京都に来られた。京都を取材するためです。四条木屋町を上がったところの旅館に宿泊されていました。中川の自宅に電話をいただいたのは正月の4日の夜8時ごろでした。正月の間、金沢におもむき京都を不在にしていた中川は、突然の電話に、驚きました。東松ですが、と名乗られ、京都に来ているが会えないか、というのです。そこで午後9時、一時間程後に、三条河原町の六曜社でお会いすることになりました。その日の昼間には、金沢の内灘を訪れ、そのまま急行列車で京都へ戻り、自宅に戻った直後でした。正月以来何度か電話をいただいていた様子で、ようやくつながったということを会ったときに聞きました。六曜社へ行くと、奥のテーブルに革ジャン姿の東松さんが、こっちこっちというように手招きされ、にこやかなお顔で、初対面、挨拶をかわしました。中川は、気が動転して、会話ができない感じで、東松神さま伝説をまともに受けていたところでした。

 東松照明さんの京都取材は、沖縄から東南アジアを舞台にした太陽の鉛筆、それから部分的に発表されていた桜のあとをうけて、京都がテーマだと、おっしゃるのでした。写真家東松照明を、そのころ写真家研究の対象として、会に所属していた田村くんと米田さんと研究していたところで、それまでの東松照明さんの軌跡は、アサヒカメラで、東松照明の世界展を特集していて、ざっとわかるようにされていたところでした。それからしばらくは、週に一回ほどのペースで、東松照明さんと会って、食事を共にし、ワインが主のお酒を飲む場があり、祇園のスナックへ行く、というようなプライベートなお付き合いをすることになるのでした。東松さんの写真集「日本」「11時02分長崎」「太陽の鉛筆」それらを話題にすることはあまりありませんでしたが、中川の興味は「東京ワークショップ」のこと、沖縄での「宮古大学」のことでした。東松照明さんが居る処には、そのころ語られはじめたワークショップという内容を軸にして、写真家の活性化が起こる、という神話です。京都ワークショップ、という仮説がおぼろげながら東松照明さんから中川に伝授されだします。

 「いま!東松照明の世界・展」の大阪実行委員会が組まれるなかで、この展覧会への実行をあまりよくは思っていらっしゃらなくて、むしろ巡回展を中止したい、ということを言いだされたのです。それは相当悩んでおられたが、福島辰夫氏には伝えているとは言っておられたが、中止にはならず、各地に実行委員会が立ち上がる状況でした。大阪展は、中川が実行委員会で東松さんの意向を伝えたけれど、福島辰夫氏が来阪されて、議論したところでした。結局は、大阪展は通天閣と大阪現代美術センターの二か所で同時開催する、という決定になっていきます。展覧会開催の設営には、通天閣は大阪写真専門学校の学生が担います。中ノ島の大阪現代美術センターの設営は、関わるメンバー一同で担うことになりました。通天閣のテープカットには東松照明さんがハサミを入れられます。表立っては平穏に展覧会が開催されていきました。京都では、東松照明さんを囲んで語る場がいくつか設けられます。オルグするといえばキナ臭い匂いがしますが、京都ワークショップの立ち上げをするためのメンバー集めです。このことは東松照明さんが京都へ頻繁に来られていた3年間には成熟しませんでした。1984年秋に、中川の手元からフォトハウス設立準備会の案内を発することに至ります。フォトハウス構想の発表には、東松照明さんは時期尚早だと言われましたが、切羽詰まっていた中川からは、構想だけでも発表ということで、東松さんに承諾を得て発出したのでした。