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飲み屋「聖家族」のこと1970年代から80年代へ
 1979年夏というのは、中川が釜ヶ崎において青空写真展を開催したときで、たぶんその時にある青年から声をかけられ、京都に「聖家族」という飲み屋があるけど行きませんか、という誘いがあったと記憶しています。それからしばらくして、京都は河原町蛸薬師の木屋町へ抜ける道を入って、曲がったところにバラック小屋がありました。そこが飲み屋「聖家族」の空間でした。まだ明るい時間で、店としての営業はやっていなくて、主宰者の石山昭氏とお目にかかったのです。細部は覚えていませんが、石山昭氏と意気投合したと思うんです。その時にはここで釜ヶ崎の写真展をする、ということを決めたのです。聖家族というスポットが飲み屋であることは間違いないのだけれど、その時、中川には流浪する若者の溜まり場、仲間を求めて寄り合う溜まり場、ということがわかりませんでした。

 中川に即していえば釜ヶ崎で写真展をおこなうという、想像すらできないようなことを開催したという流れから、この世の不条理を告発するという立場に立って、「季刊釜ヶ崎」という季刊誌を発行しようと当時釜ヶ崎日雇労働組合委員長の稲垣浩氏を代表に仕立てて、当地で編集部を構成し、編集活動に入っていました。経験的にいうと、70年代初めの同人誌「反鎮魂」への参加と編集の経験があったから、季刊誌編集発行に取り組んだのでした。この流れと、聖家族を知って活動の拠点としてリンクさせたいと考えたと思う。違和感なく、聖家族での活動を、主宰者の石山昭氏に提案できたのだと思います。ヒッピー族というか、流浪の民というか、中川は公務員する迄に至って社会とリンクしていたけれど、そうではない連中、決してドロップアウトした連中、とは思えない一群がいて、それらの連中がイメージ的には、釜ヶ崎を包みこみ、聖家族を支える男女がいる。そういう場所として「飲み屋聖家族」を、今、改めて思うのです。

 面白い運営だ。中川が体験する限りの範囲だけど、夕方に一番の客が来て、ワンコインを預かって、それで買い物に行くのです。新京極に西友があって、そこの食料品売り場で、ウインナや蒲鉾といったつまみになるものを買って、少しだけ料理して、客に食べさせ、お金をもらって、再び買い物に行く、食品を加工することで倍額を得て、店を回転させるというのでした。夜には沢山の若い連中が集まったように記憶しています。男子がいたし女子もいました。この場所から何ができるか、まさか革命を起こそうなんてことは、すでに当時には考えてはいませんでしたが、変革、人間のとらえ方、基本的に人間があるべき姿とは、なんて考えていたものです。「いま、写真行為とは何か」という手作り百部の和綴じ本を作りましたが、結構、反体制とは言いませんが変革を求めていました。変革は現状を変えることで、今もって、この変革することをベースに置いて、様々な活動に参画しているところです。資本に属さない、手作り、草の根運動が、脈々と社会の周辺でおこなわれていますが、中川の基本理念は、反資本というところに、現在までも至っています。

 ほんとういうと、ヒッピーと呼ばれた連中のことを、その心情や、そこにいたる社会の仕組みなどを解き明かしていかないといけない、と思うところですが、客観的な研究というレベルでは出来なくて、中川ができることを語れば、自分の生きた道筋を記憶の中で書きだし、自分ながらに検証する、このことだと思います。いま、このシリーズをおこなっていることは、そのことです。釜ヶ崎での写真展実行から聖家族へ、テレビグループモアとの交流、そうして暗黒舞踏の東方夜想会白虎社との出会い、東松照明さんとの出会い、1984年のフォトハウス構想発表と実践、という流れが作られたと、思い出し、系統づけていますが、今2018年、すでに四十年が過ぎていて、時代のテクノロジー大きく変換しています。昔はよかった、なんてことは一切言いません。温故知新、これには賛同します。新しい領域をいかにして明るみに出していくか、これが今、中川の最大課題だと考えているところです。