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 中川が釜ヶ崎に関わるようになる経緯は別途書き上げることにして、ここでは1979年夏の青空写真展を終えてとりかかった「季刊釜ヶ崎」という雑誌について書き残し、並行して発刊した「映像情報」について書き残しておきたいと思うのです。釜ヶ崎という処が日本の都市の大阪にある。そこは怖い所だ、近寄ってはいけない。世間という言い方があるとすれば、世間一般では其処を怖い所だとのイメージが蔓延していた。そういう場所へ入っていって写真を撮りだした必然というのがあるとすれば、それは何がそうさせたのか、中川にとっては解明できないまま、現在2018年に至っています。理屈的には、都市の構造というか人間社会の集団に、貧民窟が形成され、病んだとされる人間が集まる場所、ということになるようです。日本の場合、国土が都市化して成長するときに必要な労働力をプールしておいて供給する地として機能してきた側面があります。ヒトのメンタルに及ぶと、内容が混沌としてきて、語りようがないように思われるところです。

 そういう場所に入って写真を撮って、現場を世間に認知させるための手段として雑誌発刊を思いついた中川が、労組の委員長をしていた稲垣浩を発行人に仕立てて編集メンバーを集め「季刊釜ヶ崎」という雑誌を発行したのです。世間向けに発行するという初めての試みだったようで、1979年12月に発行するやいなや話題を呼んだ。当時はまだ持ち込みでも書店に並べてもらえた時代で、紀伊国屋、旭屋、等々の書店をまわって置かせてもらって売り上げる。創刊号は書店をまわって置かせてもらい、活動家に売ってもらいしながら、1984年第10号まで発刊して終えました。中川は編集兼写真と文の作品を載せていきます。当地では労組分裂などのアクシデントもありながら、発刊していきます。中川の編集意欲も衰退してくるなかで、諸般の事情により休刊しました。その後に復刊との声もありましたが、復刊されることはありませんでした。

 一方で、中川は同時期に「映像情報」を発刊します。1980年8月に第一号が発行されます。写真映像の領域で同人を募って編集発行を目論みますが、結局のところ個人誌として発行されることになります。内容については別途にしますが、関西でカメラクラブで研鑽してきた中川にとって、そことの決別に至るのは、釜ヶ崎取材と大きくかかわっています。甘ったるいカメラクラブの制作方法から、人間を捉える写真表現の在りかたを模索して、必然的に決別しなければならなかったのです。写真の世界では一人になって、断絶し、そこから起ち上る方法として、映像情報の編集にかかったのでした。1984年1月に第12号を持って終えますが、その時には、新たな構想が芽生えておりました。いわゆる「フォトハウス構想」でした。2018年のいま振り返ってみると、世の中全般が今以上に政治の動向に関心があったように思われます。写真表現においても政治に密着した側面からのテーマの選び方というのが、濃厚にあったように思えます。1984年には、中川自身が行き詰ってしまって、表現することから離れ、サポートする側にまわってしまうのですが、それは時代精神の屈折点だったのかも知れません。
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