京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
2005.4.10
写真表現の世界へようこそ!
☆これから写真表現を学ばれるあなたへ 写真表現とは、自分の<こころ>を、外に出すことです。
(001)はじめに
こんにちは、ここは写真表現の方法を学ばれるあなたへの、テキストです。
写真で自分を表現していくには、いくつもの方法があります。
ここでは、あなたの写真表現のための手助けとなれるよう、
心がけたいと思っています。
言葉よりも実践が大事だと思いますから、
カメラを持って写真を撮る、これが第一です。
そうして自分が撮った写真について、
あれこれ思いだしたら、ここを開けばよろしい。
まづは実行ありき、ぼくはこのように思っています。
2008.1.25
(1)写真表現の基本コンセプト
写真をとらえていくということは、自分の生き方をとらえていくということにつながると思います。
そして自分という個人を超えていく手段として、
把握されていかなければならないのではないかと思います。
初期の写真技術のひとつが1839年に公表されてされてから170年余りが経ちました。
現在、これまであった写真をめぐる技術と思想の範囲では、
これから来たりくる「写真」という枠組みが捉えられない状況にあるのではないかと思っています。
これからぼくは、写真表現をめぐるさまざまなことを、
写真学講義と名づけて記述していきますが、
これからの写真ってどんなのになっていくのだろうか、
というのが主要なテーマとしてあります。
また、写真表現というものは「ひと」が個的にかかわりながら制作していくものですから、
その創造のプロセスを明確にしていければなー、とも思っています。
これはひとの内側の深~いところに疼いている欲望のありかを、
意識の上に浮上させる試みでもあると思います。
カメラと写真をとりまく様々な技術のことや、
社会とのかかわりを求める表現の歴史的な観察や、
人間の社会や文化を構成する手段としての写真の姿、
というようなことを念頭において、
これからの生き方の方向とその方法を探っていければいいな、と思っています。
人間共同体の関心ごとが年月の経過とともに変容してきて、
現在その関心ごとの広がりは「見えるものと見えないもの」のなかで、
見える宇宙見えない宇宙、
見える地球環境見えない地球環境、
見える社会現象見えない社会現象、
見える自分見えない自分・・・・・。
さまざまな見えるものと見えないものの狭間でぼくたちは生存しているのです。
写真はいつも見えるものを捉えることで
見えないものを見せようとしてきたように思います。
写真という手段は目に見えるものしか捉えられない、という宿命を知りながら、
この見えないものにアプローチすることはそれぞれの時の現代的なテーマでもありました。
これは現在もやはり主要テーマであり続けるようです。
そこで、大切なことはぼくたちが写真というメディアを使って何をするのかということです。
現在時点で科学技術が明確にしている事柄を取り入れながら、
その背景を創り成す思想というイメージ世界をふまえて、
それぞれの生き方、生存のあり方、
そして「ひと」と「ひと」との関係のあり方を模索していくこと、とでも言うことでしょうか。
これからの写真を使っての表現方法の基底には、
生命というものの根源を考えイメージしていく姿勢と、
視点をもって、こころ(精神とか内面といわれるもの)の安定、欲望の実現をめざすことがあります。
これは、「こころ」の深い処で、
現実表層を造っている世界というものを深い構造として捉え、
情動のレベルで新たなる安定や喜びを見いだしていくことではないかと思います。
写真を表現手段として手に入れるということは、
自分のいる場所を探しに出かけていくこと、
そしてその場所を確認していく作業でもあるのではないでしょうか。
これらのことを言葉でいうのは、ある程度簡単なんです。
それを具体的な作品にしていくことがじつは大変なことなんです。
でも、その大変だ!ということも十分に知ったうえで、やっていくしかないですからね。
まあね。わかる、感じる、ところからはじめていきましょう。
執筆:中川繁夫
2005.4.10
写真表現の世界へようこそ!
☆これから写真表現を学ばれるあなたへ 写真表現とは、自分の<こころ>を、外に出すことです。
(001)はじめに
こんにちは、ここは写真表現の方法を学ばれるあなたへの、テキストです。
写真で自分を表現していくには、いくつもの方法があります。
ここでは、あなたの写真表現のための手助けとなれるよう、
心がけたいと思っています。
言葉よりも実践が大事だと思いますから、
カメラを持って写真を撮る、これが第一です。
そうして自分が撮った写真について、
あれこれ思いだしたら、ここを開けばよろしい。
まづは実行ありき、ぼくはこのように思っています。
2008.1.25
(1)写真表現の基本コンセプト
写真をとらえていくということは、自分の生き方をとらえていくということにつながると思います。
そして自分という個人を超えていく手段として、
把握されていかなければならないのではないかと思います。
初期の写真技術のひとつが1839年に公表されてされてから170年余りが経ちました。
現在、これまであった写真をめぐる技術と思想の範囲では、
これから来たりくる「写真」という枠組みが捉えられない状況にあるのではないかと思っています。
これからぼくは、写真表現をめぐるさまざまなことを、
写真学講義と名づけて記述していきますが、
これからの写真ってどんなのになっていくのだろうか、
というのが主要なテーマとしてあります。
また、写真表現というものは「ひと」が個的にかかわりながら制作していくものですから、
その創造のプロセスを明確にしていければなー、とも思っています。
これはひとの内側の深~いところに疼いている欲望のありかを、
意識の上に浮上させる試みでもあると思います。
カメラと写真をとりまく様々な技術のことや、
社会とのかかわりを求める表現の歴史的な観察や、
人間の社会や文化を構成する手段としての写真の姿、
というようなことを念頭において、
これからの生き方の方向とその方法を探っていければいいな、と思っています。
人間共同体の関心ごとが年月の経過とともに変容してきて、
現在その関心ごとの広がりは「見えるものと見えないもの」のなかで、
見える宇宙見えない宇宙、
見える地球環境見えない地球環境、
見える社会現象見えない社会現象、
見える自分見えない自分・・・・・。
さまざまな見えるものと見えないものの狭間でぼくたちは生存しているのです。
写真はいつも見えるものを捉えることで
見えないものを見せようとしてきたように思います。
写真という手段は目に見えるものしか捉えられない、という宿命を知りながら、
この見えないものにアプローチすることはそれぞれの時の現代的なテーマでもありました。
これは現在もやはり主要テーマであり続けるようです。
そこで、大切なことはぼくたちが写真というメディアを使って何をするのかということです。
現在時点で科学技術が明確にしている事柄を取り入れながら、
その背景を創り成す思想というイメージ世界をふまえて、
それぞれの生き方、生存のあり方、
そして「ひと」と「ひと」との関係のあり方を模索していくこと、とでも言うことでしょうか。
これからの写真を使っての表現方法の基底には、
生命というものの根源を考えイメージしていく姿勢と、
視点をもって、こころ(精神とか内面といわれるもの)の安定、欲望の実現をめざすことがあります。
これは、「こころ」の深い処で、
現実表層を造っている世界というものを深い構造として捉え、
情動のレベルで新たなる安定や喜びを見いだしていくことではないかと思います。
写真を表現手段として手に入れるということは、
自分のいる場所を探しに出かけていくこと、
そしてその場所を確認していく作業でもあるのではないでしょうか。
これらのことを言葉でいうのは、ある程度簡単なんです。
それを具体的な作品にしていくことがじつは大変なことなんです。
でも、その大変だ!ということも十分に知ったうえで、やっていくしかないですからね。
まあね。わかる、感じる、ところからはじめていきましょう。