執筆:中川繁夫
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.1.25
(009)写真学の新しい理論つくり
写真のはなし-01-
このサイトの名称が「あい写真学校・・」って言ってるのに
写真の話がちっともなかったんで、
きょうは「写真のはなし」ってタイトルをつけてみました。
ここで「あい写真学校」ってあるのは、
何か自分の内側にあるものを、写真で表現していきたいと思っているひとが、
通信で通学で学べる学校を想定しているんです。
写真を撮ってるひとって多いですね。
もう生活必需品なんですね。
でも、写真を撮っていて技術的に上達していくのはいいんですが、
なかにはもうちょっと上手になりたい、
写真ってなんなんだろうな~なんて疑問を抱きだしたりして、
そういえば写真学校ってのがあるな~
いっちょそこで勉強すっか!なんて思いだしてくるんですね。
そういうひとのために創ったのがこの学校
通信でやるのでどこにいても学べる
写真って義務教育の中で習わないから訳がわからない
雑誌や広告の大部分は写真で埋め尽くされてるのに
その解釈ができない・・・
そんな現状をみて写真学校へ習いにいっても
撮り方の技術ばっかりです。
そうではなくて自分が生きている実感としての表現をしてみたい!
そこには、なぜ写真を撮るのか、という自分のことをとらえる視点も必要なんです。
そういうことに気づいたひとが学べる学校、
そんな学校が私自身がほしかったんです。
だから、学校をつくりだしたんです(笑)
まあ、ためしに一回のぞいてみてください。
見たり読んだりはタダですからね!!(笑)
では、またお会いしましょう。
写真のはなし-02-
どうしてそんなに写真にこだわるの?
写真って光が描き出す絵ですね。
自然の鉛筆って写真発明者タルボットはいいましたけど
この光の描き出す絵ということにこだわってるんです。
文化研究という枠で世の中のことを見ようとしてるのですが、
いまの文化状況って映像イメージ氾濫時代じゃないですか。
写真っていうのは静止画だし音も台詞もはいらないものです。
イメージの原点だと思うんです。
それと文化の生成プロセスということにも興味があるんです。
いまだったらアテネオリンピックの話題ですね。
TVの画像と音声は写真からの発展形だと思うんですが
スペクタクル化するイベントを映像で作りあげていく
その背後には商業資本が商品化していくプロセスがみれるでしょ
こういうことは社会の流れだから賛成とか反対とかいう筋合いではないですが
人間の本来的姿(充実感と幸福感)をみることができるかどうかなんです。
世の中がグローバル化し個人が均一化していくのがこの先に見れるとしたら
未来が人間をロボット化していく過程にあるとしたら
いまいちど原点回帰が必要ではないのかな~と思うんです。
写真って撮って楽しんだらいいものなんですが
そして射幸心を刺激してくれるんだから娯楽として楽しんだらいいんですが
それだけじゃあないやろ~~っていう思いもあるんです。
写真学校「写真ワークショップ京都」の企画を立ててるなかでの思いです。
写真のはなし-03-
写真をとらえていくということは、
自分の生き方をとらえていくということにつながると思います。
そして自分という個人を超えていく手段として、
把握されていかなければならないのではないかと思います。
初期の写真技術のひとつが1839年に公表されてされてから、
160年余りが経ちました。
現在、これまであった写真をめぐる技術と思想の範囲では、
これから来たりくる「写真」という枠組みが、
捉えられない状況にあるのではないかと思っています。
私にはこれからの写真ってどんなのになっていくのだろうか、
というのが主要なテーマとしてあります。
また、写真表現というものは、
「ひと」が個的にかかわりながら制作していくものですから、
その創造のプロセスを明確にしていければな、とも思っています。
これはひとの内側の深~いところに疼いている欲望のありかを、
意識の上に浮上させる試みでもあると思います。
カメラと写真をとりまく様々な技術のことや、
社会とのかかわりを求める表現の歴史的な観察や、
人間の社会や文化を構成する手段としての写真の姿、
というようなことを念頭において、
これからの生き方の方向とその方法を探っていければいいな、と思っています。
人間共同体の関心ごとが年月の経過とともに変容してきて、
現在その関心ごとの広がりは「見えるものと見えないもの」のなかで、
見える宇宙見えない宇宙、見える地球環境見えない地球環境、
見える社会現象見えない社会現象、見える自分見えない自分・・・・・。
さまざまな見えるものと見えないものの狭間で、
ぼくたちは生存しているのです。
写真はいつも、見えるものを捉えることで、
見えないものを見せようとしてきたように思います。
写真という手段は、目に見えるものしか捉えられない、という宿命を知りながら、
この見えないものにアプローチすることが、
それぞれの時の現代的なテーマでもありました。
これは現在もやはり主要テーマであり続けるようです。
そこで、大切なことはぼくたちが写真というメディアを使って、
何をするのかということです。
現在時点で科学技術が明確にしている事柄を取り入れながら、
その背景を創り成す思想というイメージ世界をふまえて、
それぞれの生き方、生存のあり方、
そして「ひと」と「ひと」との関係のあり方を、
模索していくこと、とでも言うことでしょうか。
これからの写真を使っての表現方法の基底には、
生命というものの根源を考えイメージしていく姿勢と、視点をもって、
こころ(精神とか内面といわれるもの)の安定、欲望の実現をめざすことがあります。
これは、「こころ」の深い処で、
現実表層を造っている世界というものを深い構造として捉え、
情動のレベルで新たなる安定や喜びを見いだしていくことではないかと思います。
写真を表現手段として手に入れるということは、
自分のいる場所を探しに出かけていくこと、
そしてその場所を確認していく作業でもあるのではないでしょうか。
これらのことを言葉でいうのは、ある程度簡単なんです。
それを具体的な作品にしていくことがじつは大変なことなんです。
でも、その大変だ!ということも十分に知ったうえで、やっていくしかないですからね。
まあね。わかる、感じる、ところからはじめていきましょう。