☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の範囲 つまりお金ではない
nakagawa shigeo 2004.6
832_3228

写真の範囲

写真の範囲ってどういうこと?
そうなんですね、何をもって写真とするのか、っていう区分けの問題なんです。

かってカメラ装置とフィルムが創りなすものを写真っていってました。
でも現在はカメラ装置とフィルムが無いところで写真に似たものが創られる。
たとえばコンピューターグラフィックス、これって写真の仲間に入れてはいけませんか?

物理・化学処理によって作り出されたものが写真だとしたら、
デジタル写真ってのは化学処理しないですね。
現像のための薬品使わないではないですか。
暗い部屋(暗箱)から明るい部屋(コンピュータ)の方へ、
処理の方法が変わってきたじゃないですか。

カメラ、フィルム、薬品、コンピュータ、デジタルデータ・・・
いま朦朧としながらも写真って呼んでる範囲におけるハード装置です。

べつにどうでもいいことなんかも知れません。
明確にしないほうがいいんかもしれませんね。
いま、世の中って混沌だし混沌のままで表面すべっていったらいいんかもね(笑)

これまでの分類方法では現実に即さないようですから、
あえてこうして発言してるってわけです。
つまり写真学校っていってるんですけど、
なにを学んだり研究したりする学校なんですか?
っていう素朴な疑問があるんです。
これを解明していかないとやっぱりやっていけないでしょ~(笑)

これもカリキュラムに入れないといかんのやな~って思ってます。



つまりお金ではない・・・

写真学校フォトハウス京都の考え方

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~なんていうのは満更ウソではないですね、なんでも出来ちゃうですね。
お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、教育産業っていうんだそうです。
確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですからどうしようもないシステムなんですね。

でも、この経済活動を成立させないところで写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。
教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、人間の欲望って上昇志向ですね。
競争心ってのも必要ですね。

戦争があります。絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸にせめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。
この「あい写真学校」「写真ワークショップ京都」いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が作ったもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「あい写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。

そ~ゆう価値観じゃないところで、ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。
nakagawa shigeo 2004