☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と文化-そして芸術ということ-
nakagawa shigeo 2004
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写真と文化-そして芸術ということ-

大きなタイトルをつけていますが内容は小さなお話です。

写真は光が描いてくれる絵です。
写真がなかった時代というのは絵を描いていました。
その絵の歴史をひもとくと、わが国では飛鳥時代の古墳の壁画や玉虫厨子に描かれた絵を思い出します。西欧では洞窟壁画(ラスコーの洞窟が有名です)があります。
人の意識が確立してくる過程で人の行為として絵を描くことがでてきます。
その原形からさまざまに発展継承してきて、
現在の先端では写真、映像がそれに対置できる代物ですね。

そのイメージ(描かれた像)にはメッセージがこめられています。
その時代その時代の或る意味で神話的な物語がこめられる。
この作用っていうのは文化の力です

このようにして考えてくると、現在の写真のテーマは何か?っていうのが、
あんがい導き出しやすいかもしれませんね。
いやはやここで、物語についての是非を論じ出すときりがないですから、
ここではいったん物語性の是非ということはオミットしておいて(笑)

写真の内容がこの時代の物語に由来する。
この物語が、中心的なものであるか周縁的なものであるかですね。
と、言い出すと中心的とか周縁的というのは写真以前の領域作業ですね。
わかりますよね、この話って?

写真とはカメラを使って作り出す「存在物を定着させた平面」(と定義しときます)です。
その-撮られた存在物-を認知していくのは文化の力です。
そこで、この存在物の背後の意味をつむぎ出そうとするのが作家さんの仕事です。
という論法になってきますね。

このことってけっこう難しいと思いますよ。
でもね、絵巻物ってあるでしょ、北野天神縁起とか源氏物語絵巻とか、とか・・です。
曼荼羅っていうのもありますよね。
それらイメージでしょ、描かれたイメージなんです。

絵巻は風説や物語を絵に置き換えていく作業ですよね。
曼荼羅ってのはこころのイメージ化の作業でしたよね。
なにか、写真を撮ってるひとにはこの形式がヒントになりそうですよ。

こうしてここでいろいろと話題を提供していますが、
これでもやっぱりまだなんです。
気づいておられますか?
写真の内容、中味についての話です。
これがまだ出てきていないんですね(笑)

ここで作家さんの登場となるわけです。
評論っていうのはけっきょく言葉をつむぎ出して作家さんを触発する。
そんな役割ですね。

この毎日の記事も、行ったり来たり、ぐるぐる回っていま外堀を掘っています。
まるでフーガやロンドみたいな形式ですね(笑)
でも少しずつ輪郭が作られてきているようにも思っています。
引き続き、文字ばっかりの写真のサイトですが、
これからも続けていきます。

アートとはなにかということ-その1-

ぼくはこの10数年間をアートと呼ばれている領域で仕事をしてきました。
1992年10月に写真図書館を設立参加し館長を5年間務めてきました。
1994年4月から2年間は写真の専門学校におりましたし、
1996年から2002年7月まではIMIという芸術系大学院レベルの講座を擁する
研究所の創立メンバーに加わり6年間事務局長として運営してきました。

その経験のなかで培った知識とぼくのいま考えることの内容が大きく乖離してるように思っているんです。

アートとはなにか?アーティストとはどのような人種であるべきなのか?など、このようなことを考えていて、ここでは、ぼくの「アート」観を語っていきたいと思っています。

経済体制に組み込まれて第二貨幣的役割を果たす作品を作り出すひとが、アーチストだという判断基準があるとすれば、まづこの仕組みの是非を考えていきたいと思います。
サーキットレースにも例えられるアート界というものを今一度吟味しながら、これからの生活スタイルの編み出していくためのアートを探し出していくのが、このコーナーの仕事かな~と思っております。

人間が生きてる地球の規模で政治・経済・文化というものをとらえると、これは一体のものとしてあることに気づきます。
文化領域には大きく消費者市場としての経済文化、心の救済を求める宗教文化、欲望の発露としての芸術文化があります。

この3つの文化圏が別々にあるのではなくて、経済文化を中心としてその両サイドに宗教文化と芸術文化があるイメージです。3つの文化圏は一体のものなのです。つまり経済システムに組み込まれた芸術と宗教という見方ができます。

人間の充実感、幸福感という視点からみて、いまある経済システムでよいと思うなら、何等思い悩むことが無いわけです。
でも実感をいいあてるとすれば、そんなんみんな思い悩んでるよ~ということでしょ?
たしかに経済的安定を優先させていくこと(年金問題)で、こころの安定が求められるのかもしれないですね。

でも、ぼくはこの図式は間違っていると思っています。
たしかに経済的安定というのは基本原理のように見えますが、これは国家国民という基本形態を基礎においた発想ではないでしょうか?
国家国民経済の根本を安定させることで、個々の人間がこころの領域まで豊かな幸福感に満たされるとは、どうしても思えないのです。

 アートとはなにかということ-その2-

人間の生の営みのなかでアートということを考えてみます。
生命を維持していくなかで、食べること、寝ること、セクスすること、これが基本だと思います。その上に、衣装をまとうことや、美味しく食べたい、人に認めてもらいたい、というような欲求があります。

マズロー(1908年NY生まれ)は、欲求段階説を書き表していますが、その根底(第一段階)では、生理的欲求をあげています。生存、安楽の欲求です。衣食住の生理的、肉体的な欲求です。そのことが充足されることで安全、安定を求める欲求があるといいます。そのことまでも充足されると、社会的親和の欲求がある、集団帰属欲求です。

この段階説からいうと、アートする欲求は衣食住が満たされ生きることの安全、安心が確保された上で生じてくるように感じます。

集団に帰属したい、集団の中で一体感を持ちたい、仲間から受け入れられたい、愛情ある人間関係でありたい・・・・こういう意識が芽生えはじめるなかから、アートといえる意識が発生してきたんだと思います。
ぼくは、コミュニケーションツールとしての表現のなかにアートの原形をみることができると思っています。

アートすることとは、コミュニケーションすることです。人に自分の感じる何かを伝えたい、この
欲求を形にしていくもの、これだと思います。自分の欲求の痕跡を残すものとして、岩や石に、身体に、刻んだ痕跡です。そこから様々なアートするための道具がつくられてきます。この道具はアートするツールです。大事なのは、そのことを欲求の内に抱いたこと、そのことなんです。

だから一応の線引きとして、生きるための食料を求める行為そのものの中では、アートする行為は認めない、という線を引いてみます。これは共同体総体としてのレベルのことです。

そう考えると、たとえば、地域共同体が収穫祭をとりおこなうこと。収穫祭の形式が出来てくる過程で、その祭りという儀式そのものがアートすることを孕むんです。親密な関係のなかで営まれるコミュニケーションです。ここで安心、安定した集団帰属への充足がみてとれます。

ここでは、原理的な話をしています。アートとはなにか、というその根底を支える心のあり方に論及したいのです。

ぼくが、農産物を作り出す作業とアートする作業とを同列に置くゆえんは、ここにあります。
現代社会では、社会総体として生存を脅かされている段階ではありません。ただ配分の問題がありますが、うまく工夫をすれば生存できるだけの食料はあると考えています。そこにはもちろん人間の労働がなければならないわけですが、食料は充足しているとみていい
と思います。

でも、個別に見ていけば、貧富の差があるし、食うに困る立場に追いやられることもあります。この格差は、別に是正していくことを考え行動していかなければいけないんですが・・・。そのためにも食料を生産するスキルを身につける必要があると思っています。
また、いまの社会にあっては、都会に住まう人にとって、食料生産は贅沢生活のようにも感じてしまいますが、生きることの基本として捉えるんです。また、このことは、心の充足、幸福感を得るという道筋にもつながっているように考えていま
す。

アートの原形が生活の安定、安心から生じるんです。そのうえでコミュニケーションツールとし
てアートを生み出すんです。その基本形を自分の領域で作っていかなければいけないんです。社会生活不安からアートが生み出されるのではありません。社会での安定生活のうえに喜びの対象としてアートすることは眺められるべきなんです。

自分の作品が世に認められること、確かに集団帰属へのコミュニケーション手段です。
F1レースに出場するレーサーがトレーニングを重ねる、オリンピックでメダルを獲得するためにがんばる!この図式でアート作品を生み出して名声を得る!でもこのことだけがアートする心の道筋じゃないんです。基本形はこういうことです。

ぼくは、アートすることの意味を、問い直す作業をしているんだと思っています。
これは、生きることの意味を、見つめなおす道筋に起こってきたことなんです。
人が生きることのなかに充実感と幸福感を見いだせるかどうか、との設問なんです。
個人の生活の総体のなかで、どのようにしてこれを実現していくのか、との設問なんです。

アートとはなにかということ-その3-

今回は、この世の中での、アートという領域を考えてみまたいと思います。
この世の中といったとき、この大きさは過去の歴史の全てを経てきて、今ある人間世界のことです。
私たちはこの人間世界のことを、いくつかのカテゴリーに分けて整理をしています。
概念上、その中心に政治・経済の領域をおいて、その周辺にアート(芸術)領域と宗教領域をおきます。ほんとうは単純に分類できることではないのですが、
このように単純化してみてみます。するとアートと宗教という領域が明確になるかと思います。中心が政治・経済の領域です。アートと宗教は、その外側にあるのではなくて、政治・経済の領域に取り込まれるようにして、内在しています。
内在していますけれども、アートや宗教は政治・経済とは質の違うものなんだと考えます。
政治・経済というのはシステムです。構造化された人間の関係です。身体をもった人間の集団が国家を形成し、これがひとつの単位になって、国内政治・経済が国際政治・経済と契約により関係を持つ。これが近代社会のありようです。
この関係の根本原理を構成するものとして、貨幣というものが介在します。
人間集団である国家、その国家を構成する人間が国民、その人間と人間をつなぐ貨幣というもの。この国家、国民、貨幣、という三要素でもって、政治・経済の領域とします。

世に言うアートというのは、貨幣経済に組み込まれてしまったアート領域の部分を言っています。単純に言ったら、商品価値としてのアートです。そしてアートはスキルと感性だといいます。それを特別な枠に縛っていって、商品価値というものを作り出します。

ところでこのスキルと感性というものです。スキルは技です、技術です、これは形式化できます。すると「感性」というのが、何を指すか、ということです。感性とは、感じること、とでもしておきましょう。この、感じることの感じ方の中味です。この感じ方っていうのも、歴史的に培われてきたものだ、との考え方を認めます。
この感じることは「こころ」です。

人間社会のこの世の中の関係が、国家、国民、貨幣、そこにヒトのこころを含める。でもこれで全てではないことは、直感としてもわかります。つまりヒト個人のこころの部分の中味です。この「こころ」に、どうもその領域に収まらない部分があるようなんです。「こころ」といっても独立してあるわけではないですね。
これは歴史的に作られてきたというのが大筋の見方です。
でもボクは、この「こころ」の領域に、
そこからもはみ出してしまう部分があるように考えています。
アートというのは、このはみ出してしまう部分のこと、という仮説をここで立てておきます。 

アートとはなにかということ-その4-

アートの枠組みをどのように捉えるのか、というのがここでの主題です。
前回では、アートは経済システムに内在していますが、
ヒトのこころのはみ出し部分である、と仮説を立てました。

ヒトのこころのなかにある欲望といえばいいのでしょうか?
なにかやりたい!っていう行動するエネルギーがありますが、
このエネルギーとしての情動が根底にあるように思います。
このエネルギーは生きる力です。
生きる力は生産する力を生み出します。
その根本は、食物生産と子孫生産、つまり、食べることとセクスです。
この二つの欲望をからだが求めるのです。

この欲望を実現するために、知恵が働き、想像力が育まれます。
この想像力というもの、こころの働きです。
だから、アートというのは、欲望実現のこころが成せるものだと考えています。
アートとは、基本的にこのような性質をもつものですから、
ヒトの生涯における成熟過程で、だれもが持っている資質だと思うわけです。

でも、このような欲望があったとしても、この欲望をなにかの形にしなくては、
アートとしての形になりませんね、つまり表現の形です。
からだという道具を使う表現に、身振り手振りのパフォーマンス、声楽(歌)。
これは時間のなかに生成し時間のなかに消滅します。
からだの外に道具を求め、この道具を使ってなにかを作る。
この場合は、時間のなかに生成して、時間を超えて残ります。

このふたつ、時間のなかに生成し消滅するものと、消滅しないもの。
これが原形です。
太古の時代を想像してみます。
何かへの儀式でパフォーマンスをおこなう、踊りです。
それと洞窟などに描かれる痕跡、絵です。
いまだから「アート」という言葉を使っていますが、まだそんな言葉がなかったころです。
アートという言葉はなかったとしても、ヒトの欲望を満たす行為はあった。

その行為は、ヒトの進化とともに原形を保持しながら、
さまざまな工夫と技術が付加されて進化してきます。
パフォーマンスにおける化粧や衣装。
音を出す楽器。
絵を描く絵の具類。
さらにその欲望をとどめておく支持体、つまり紙とか舞台とか・・・

こうして外形は変化してきますが、その根底のヒトのこころの欲望は、
大きくは変わっていないと考えています。
ただ、新しい道具が開発されてきますし、世の中の仕組みが複雑になってきますから、
それに伴って、こころの欲望を紡ぎだす手段や方法や道具が多様化します。

現代、直近の例だと、デジタル技術の開発により、
この技術を応用して欲望を満たす手法が発生してきました。
としても、これは道具が変容しているだけで、根底は連続しています。

ヒトだれもが持っている欲望の発露の形としてのアート。
この欲望の発露に対して、経済システムが組み合わされることで、
アートの表層概念が作られてくるわけです。
つまり、アートの価値が経済価値の中に組み込まれ、イコールとなるんです。

ここで重要なポイントは、既存の経済価値から逸脱することを志向するとき、
アートの価値というものを、経済価値から切り離してしまうことだと、考えることです。

アートとはなにかということ-その5-

いったいアートとはなんなのでしょうね。
このような問いかけをしながら論を進めてきていますが、
前回には、欲望と経済価値という枠を導きだしました。
そのポイントとして「経済価値からの逸脱を志向する」という仮説を立てました。

ヒトが生存するのは人間社会です。
現在の人間社会には、その基本に「生産と消費」があります。
この生産と消費を循環させることでヒトは生存していきます。
生産のための道具があり生産設備があり、流通システムがあり、消費します。
この循環のなかにヒトは生命を維持していくのですが、
この枠内に収まりきらないのがヒトの心です。

自分のなかに、見えない混沌としてかたちのないものが、湧き立ってくるときがあります。
生産と消費の世界から、あるとき見えない世界が湧き立ってきたとき、
ヒトはうろたえの気分をもって、不可視で不思議な世界があることを知ります。
でも、これは一瞬、またもとの生産と消費の世界へ戻ります。

心の奥底で波打ち混沌としている渦を明確なものにしたい。
このような想いが湧き立ってきます。
現代科学の枠では捉えきれない領域の感情を表出したい。
この衝動がアートの原形を創りだすものと考えています。

生産と消費のサイクルのことを経済と規定したうえで、
様々な生産物をこのサイクル上に乗せてランク付け価値の基準をつくります。
でも、もうお判りのようにこの基準では測れない心の衝動。
この衝動の表出を試みることが大切な営みだと考えています。

アートすることとは、この領域を意識し何らかの形に表出すること。
この結果、表出された形あるものがアート作品ということになります。
「アート」とは、このアートする行為と結果の総体をいえばいいと思います。
見えない混沌としてかたちのないもの。
この不思議なものに対して、見えて整然としたものに置き換える作業。
宗教の原理があり、芸術の原理があり、
この両者を生産と流通の世界に隣接させて置くことで、
この世はあたかも生存のための安定を得たかのようです。

宗教家はその時代の心の救済者です。
芸術家はその時代の心の救済者です。
これらのの庇護にもかかわらず、
自分の心の奥底の混沌を明確化したいと思う衝動に駆られたとき、
アートする行動が芽生えてくるのです。

心の奥底の混沌状態は情動と欲情として自分の身体を揺すります。
この揺すってくる情と欲を満たしていくために、手段と形式を選びます
すでにある形式を枠として、そこに自分の手段をもって埋め込んでいくのです。
アートとはこの全体であり、アートすることとは全体に向けたプロセスです。