☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の現在的視点 01~03
nakagawa shigeo 2004.7.15
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写真の現在的視点-01-

プリクラ、写メール大盛隆の昨今です。
写真の面白さはなんてったって「もの」が写ることですね。
自分と友達なんかを写して自己保存しておくってことですね。

なんてったって実写イメージなんだから、分かりやすいでしょ。
その存在理由が目に見えるもので残るんですからね。
記念写真っていいますけれど、この記念にあたる日が、
日常の日々の時間のなかのそれぞれを記念にする、
こういう事態がいまの写真をめぐる現在なんですね。

このことを否定したらあかんのですよ、写真作家さん。
これ現実でこの手法を使いこなしているのが現在の写真作家です。
つまりあなた、プリクラ、写メールの写真そのものが作品なんです。

このように考えを置いていくと、いま、自称作家しているカメラマンさん、
自分はちょっとそんなんと違う!と思っていて、
花鳥風月撮って絵葉書にも及ばない技術を駆使して悩んでいるカメラマンさん、
現在の写真ってこんなもんよな~って思うことはじめませんか?

ちょっと言い過ぎてるかな~
わたしが言いたいのは写真表現の方法が、
デジタル時代大きく変わりますよ、そう言いたいわけです。

そうするとプリクラ、写メールっていうのはデジタルだからこそ出来る手法。
フィルムではできにくいですね、こ~いうことは出来にくいです。

デジタル写真はいま表現の可能性を模索しはじめています。
芸術がどうとか記録がこうとかの議論じゃなくて、表現の枠組みを作ろうとしている。
そういう時期だから、できることの可能性を見つけ出せ~っていう現在なんだと思っています。

写真の現在的視点-02-

デジカメ、プリクラ、写メールの時代真っ只中にある
写真の現在についての私観。
わたしも昨年秋にデジタルカメラを購入して写真を撮り出しました。
撮る現場はわたしの生活周辺に限っています。

まず食べることが生活の優先順位ではトップですから食べ物の写真です。
自分で酵母を培養させてパンを作っているからパンの写真
少しだけですが野菜を作っているからはたけの写真
山へ山菜とりにいきますから山菜の写真
花が好きだから花の写真

いま生活まるごと写真に撮っておいてあげようとしています。

それからですね、デジカメで撮っていますから
その写真を人に見せてあげるのにホームページに載せています。
カメラメーカーがWEB上でアルバムを作ってくれていますからそこにも載せてます。

このようにしてわたし自身の写真とのかかわりは日常生活のなかにあります。

わたしという存在があります。

この「わたし」っていったい何?っていうことの解明が現在的な課題だと思っています。

哲学がいつもテーマとしてきた人間存在を解き明かすという課題
科学がいつもテーマとしてきた人間の幸福達成という課題
宗教がいつもテーマとしてきた人間救済という課題
芸術がいつもテーマとしてきた人間の苦悩と欲望の解消という課題

わたしをめぐるいくつもの系の歴史的課題の現在形として
これからは「わたし」という存在自体が「わたし」にとってテーマとなる時だと思います。

大きな物語としての国際政治や経済のなかにテーマを求めることから
小さな物語としての「わたし」の生活維持とこころの解明を求めることへ
写真の現在というのもこの位相へのターニングポイントにある

このような場所に基点をおいて、
さて、そこから現代文明・文化にどのようにアプローチするのか
いま求められている写真の視点っていうのはこれなんでしょうね。

写真の現在的視点-03-

プリクラ、写メール時代の写真っていうのは
「こころとこころ」の交流する媒介物なのかな~。

自分の気持を相手に伝える、
相手の気持が自分に伝わる・・・。
どうも写真の位置っていうのはこの循環する自己と他者との
インタフェースの役割ですね。

写真がプライベートな視点で撮られて相手に見せる。
恋人同士の意思の確認しあいっこみたいな感覚で写真が撮られて提示される。

小さなちいさな、でも私にとっては、大きなおおきな出来事としての「私とあなた」、
その存在理由として写真が交流していきます。

もう宗教や家族共同体から解き放たれてしまった現在人が拠り所とする写真。
絵画であっても手紙であってもいいんですが、ここでは写真です。

相手に自分の存在を伝えるということは、
自分の存在を自己確認することです。
私とあなたという、
二人称のなかで写真が作用しているのが現在ですね。
このように写真の軸を置いています。

すると、そこから見えてくる内側っていうと、
こころを創りだしている生命現象というのが出てきます。
生命現象というものに軸を置くと、
自然とか地球環境とか宇宙生成とかのイメージが出てきます。
そこに「私」という個人を置くことで、
欲求とか欲望とか、生命の根源のものに触れてきます。

わたしはここで、イメージで言葉をつむぎ出していますので、
この連鎖に関連を見出しにくい人もいるかと思います。
つまり、わたしのイメージ連鎖が伝達できない、
こういった場所が、わたしたちが今いる場所なんです。
現在というのは、こういう世界に私たちがいることなんです。

かっての宗教共同体や家族共同体ではない、
しかし共同体の一員として括られてしまう現在。
この現在に写真が有効にはたらき始めている。
私とあなたのこころの交換として・・・です。

プリクラ、写メールという手段は、
まさにあらたな共同体を作りつつあるのではないですか?
自分の場所を探しはじめた喪失者が、
写真によって場所を確保し始めた~~
このようなイメージで、写真の現在的視点をつくっていこうかな~と考えています。