フォトシンポジウム京都は、1981年11月と1982年12月の二回、二年にわたって、京都にて開催されました。ここでは企画された経緯を記しておくのが目的です。そのことでいえば前段の1981年秋、東松照明の世界<いま>展の準備会が、大阪写真専門学校にて開かれました。中川としては、そこに集まったメンバーとはすべて初対面の人でした。その初対面の畑祥雄氏から、京都で写真のシンポジウムができないか、との話がありました。中川はその時すぐさまやろうとの決断をし、やる方向を畑氏に伝えました。当時の中川は「季刊釜ヶ崎」の編集をやっており「映像情報」の編集をやっておりました。写真とのかかわりを、社会のほうへとコミットしていくスタイルで、写真表現の状況を変えたいと思っていたから、シンポジウムという話し合う場をつくることで、新しい展望がわかってくるのではないか、との期待があったのです。
1981年のそのころ中川は、京都・出町のほんやら洞。そこの店主だった甲斐氏が、出町で撮った写真で写真展を開催しているとの新聞記事を読んでいました。そのほんやら洞の二階で、評論家のいいだもも氏を囲む会があり、その集会に参加した中川でした。その会場だったほんやら洞の二階で、フォトシンポジュム開催の話を甲斐氏に持ちかけ、、会場として使うことに決定したのです。呼びかけ人には、中川、畑、甲斐のほか、ギャラリー・DOTの岡田氏、写真家の新司氏が名を連ねました。食事と飲み物つきで参加費は1200円でした。
フォトシンポジウム京都は、1981年11月7日金曜日の午後3時から8時にかけて、ほんやら洞二階に、呼びかけ人5名他参加者27名、合わせて32名の会合となりました。議題は、第一部「シリアスフォトをめぐって」第二部「写真流通機構の問題点」、時間はごご3時から8時まで、中川が司会することで始まりました。パネラーがいてディスカッションするといった方式のシンポジウムではなくて、参加者は発言できるというスタイルをとりました。この議論から起こった話しで、いま必要なことは写真を見る、写真集を見る機会がない、ということで「図書館に写真集を!」のムーブメントに繋がっていくるのでした。
総勢30数名がシンポジウムに参加して、その参加者には東松照明の世界展の実行委員になるメンバー、そのほかに写真活動している人、写真家として仕事をされている人、関西在住の人たちです。翌年に結実する図書館に写真集を!の呼びかけ人になる五名が、ここに参加していました。井上青龍氏が参加され、発言されていますが、中川が井上青龍氏と会ったのが、この時でした。このシンポジウムの会議録はテープレコーダーで収録し、テープ起こしをした会議録の一部を映像情報七号(1982年2月発行)に、参加者名簿とともに、掲載しています。