写真をめぐる話

現代表現研究所の研究項目を一覧にしていきます。

2018年08月

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 フォトシンポジウム京都は、1981年11月と1982年12月の二回、二年にわたって、京都にて開催されました。ここでは企画された経緯を記しておくのが目的です。そのことでいえば前段の1981年秋、東松照明の世界<いま>展の準備会が、大阪写真専門学校にて開かれました。中川としては、そこに集まったメンバーとはすべて初対面の人でした。その初対面の畑祥雄氏から、京都で写真のシンポジウムができないか、との話がありました。中川はその時すぐさまやろうとの決断をし、やる方向を畑氏に伝えました。当時の中川は「季刊釜ヶ崎」の編集をやっており「映像情報」の編集をやっておりました。写真とのかかわりを、社会のほうへとコミットしていくスタイルで、写真表現の状況を変えたいと思っていたから、シンポジウムという話し合う場をつくることで、新しい展望がわかってくるのではないか、との期待があったのです。

 1981年のそのころ中川は、京都・出町のほんやら洞。そこの店主だった甲斐氏が、出町で撮った写真で写真展を開催しているとの新聞記事を読んでいました。そのほんやら洞の二階で、評論家のいいだもも氏を囲む会があり、その集会に参加した中川でした。その会場だったほんやら洞の二階で、フォトシンポジュム開催の話を甲斐氏に持ちかけ、、会場として使うことに決定したのです。呼びかけ人には、中川、畑、甲斐のほか、ギャラリー・DOTの岡田氏、写真家の新司氏が名を連ねました。食事と飲み物つきで参加費は1200円でした。

 フォトシンポジウム京都は、1981年11月7日金曜日の午後3時から8時にかけて、ほんやら洞二階に、呼びかけ人5名他参加者27名、合わせて32名の会合となりました。議題は、第一部「シリアスフォトをめぐって」第二部「写真流通機構の問題点」、時間はごご3時から8時まで、中川が司会することで始まりました。パネラーがいてディスカッションするといった方式のシンポジウムではなくて、参加者は発言できるというスタイルをとりました。この議論から起こった話しで、いま必要なことは写真を見る、写真集を見る機会がない、ということで「図書館に写真集を!」のムーブメントに繋がっていくるのでした。

 総勢30数名がシンポジウムに参加して、その参加者には東松照明の世界展の実行委員になるメンバー、そのほかに写真活動している人、写真家として仕事をされている人、関西在住の人たちです。翌年に結実する図書館に写真集を!の呼びかけ人になる五名が、ここに参加していました。井上青龍氏が参加され、発言されていますが、中川が井上青龍氏と会ったのが、この時でした。このシンポジウムの会議録はテープレコーダーで収録し、テープ起こしをした会議録の一部を映像情報七号(1982年2月発行)に、参加者名簿とともに、掲載しています。

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 1982年9月13日、いま!東松照明の世界・展の大阪展が開催、オープニングセレモニーがありました。たまたま中川が撮ったテープカットの写真が残っているので、これを載せます。全国を巡回する写真展で、各地に実行委員会が作られました。大阪においてもその準備会から実行委員会、呼びかけからおよそ1年弱の活動を経て、二か所で同時開催するという結果となりました。通天閣と大阪府立現代美術センターで、同時開催、写真は通天閣のものです。1981年の夏に、たしかアサヒカメラの誌上に大阪展実行委員会に参加案内があったので、すでに映像情報を発行していた中川が、参加する旨の葉書を送ったと記憶しています。10月になって準備会を開く旨の通知があって、その会場は大阪写真専門学校の教室でした。その会場に赴くと、初めて会う人ばかりで、何人かから中川の名前を知っていると言われたのです。後にいろいろとムーブメントを立ち上げるメンバーがそこに集まっていたのです。そこに集まっメンバーのそれぞれに、それまでの写真に関わることをしていた人で、大阪写専の人、オンザシーン誌の発行に関わっていた太田さん、独立した会社を取り仕切っていた畑さん、京都で写真ギャラリーを始められていた岡田さん、等々を知ることになったのです。もちろん実行委員会のメンバーはそれ以外の人で、学生の時から写真の運動に関わっていたメンバーとか、でした。それぞれに立場が違うメンバーが集まって、実行委員会が結成され、具体的な準備活動を行っていきます。

 全国レベルでの委員長だったか責任者は写真批評家の福島辰夫氏でした。東松照明氏のそれまでの写真500点を一堂に集めての写真展で、アサヒカメラ誌がいくつもの特集を組んでいたと記憶しています。たまたまというか偶然というか、この年の大晦日に写真家東松照明氏が、京都取材のために京都に宿を取られます。巡回展の実行委員会が立ち上がったのと京都取材を始められるのは、偶然のことだったと、中川は現在、考えています。大阪展において、内部での確執があった、と記録されていることもありますが、その確執が明らかにされた形跡はありません。ここにその推移を、中川の見たところから論じておくのも、必要かと思います。それは写真展のための実行委員会運営についての東松照明さんの見解で、その運営の流れについて否定的だったのです。何度もの東松照明さんと中川の会話で、中川が記憶するところを述べますが、東松照明さんは実行主体の背景がわからないというのです。背景とは具体的なことはわかりませんが、東松照明さんが推測するところ、かってあった学生運動のセクト(党派)が動かしているのではないか、というのです。そういう運動の流れの中に自分の写真を使ってもらうのには、否定的見解だったのです。結局、大阪展は二か所で行われたところですが、実行委員会の途中に、実行か中止か、という話になり、福島辰夫氏もまじえて意見を交わしましたが、実行することに採決された経緯があります。中川は、中止の方を主張しました。東松照明氏の感情の問題にまで踏み込み、東松照明さんの意を汲み取っての中止主張でした。すでの1980年代に入っていて、1960年代からの学生運動のセクト争いの様相を、実行委員会のなかに持ち込みたくなかった、というのが本音です。
(続編あり)

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 1982年5月がオープニングとなった「ザ・フォーラム」創設までのいきさつを語っておかないと全体が見えてこないと思います。1980年になって、テレビモアの岡崎純と話しているなかで、自分たちの作品を発表する常設会場が欲しいということになります。岡崎はビデオアーチストで、ビデオ作家たちとの交流がありました。中川の方は、若い写真家たちとの交流が出来つつあった時期で、自主ギャラリーを開設したいと思っておりました。岡崎とは「フリースペース聖家族」の創出時から懇意になりだし、写真の環境と映像の環境が似ていることの共感があり、聖家族が終わったあと、いずれ別場所で自主ギャラリーを持とうとの話を交わしていたところでした。ビデオカメラマンの瀬川は、当時には肩に担いで操作するビデオカメラで、釜ヶ崎の労働者らのドキュメントを制作していました。写真の中川とビデオの瀬川が、一緒に取材したケースはありませんでしたが、その心情を共有する感じで、信頼関係にありました。この瀬川恵美がギャラリーのディレクターを務めるということで、1982年冬頃から具体的な創出に向けて動き出したのです。

 時系列的に言うと、1981年秋に大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ大阪)の教室に「いま!東松照明の世界・展」開催のための準備会が開かれ、その場へ「映像情報」を発行していた中川も参加しました。具体的な出席者は羅列しませんが、そこにいた畑氏から「シンポジュームをやらないか」との発案を受けて、11月に京都でフォトシンポジュームを開催、図書館に写真集を、ムーブメントの動きがでてきました。この流れとは別の流れになるのですが、翌1982年早々に、ビデオの岡崎が事務所を長堀橋近くのマンションに移転させました。自主ギャラリーを開設するための場所として、セキュリティーの効いた3LDK、高級マンションの一室でした。映像情報第八号、1982年2月発行の記述を参考にしますが、「大阪・映像フォーラム(仮称)創出の動きについて」という状況文を載せています。5月にはオープニングの展覧会を開催するのですが、場の名称を「THE FORUM」とし、オープン記念イベントを組みます。オンザシーンを編集していたメンバーで新見、太田、学生だった園田、作家の高嶋のグループ展でオープンします。中川の写真展、畑の写真展、岡崎のビデオアート展、土曜日にはティーパーティーを催し、最終日曜日にはシンポジュームを開催するプログラムでした。
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 1980年初めに聖家族通信を発刊しておりましたが、聖家族の閉鎖にともなって、中川の行為の場がなくなります。当時、1979年12月には、中川が編集主幹で「季刊釜ヶ崎」を創刊していて、それとは別に写真と評論のフリーペーパー「映像情報」を創刊したのです。創刊号の発行は1980年8月1日付です。マスコミに対してミニコミという概念が語られ、マスコミの発刊物に対して小さなメディアを創る、という発想です。創刊号は版下を手書きして、乾式のゼロックス社のコピーにしてホチキスで止めるという表紙含め10ページで、販売価格は100円です。

 フリースペース聖家族は、映像情報の記事記録によると、1980年7月に再開のパーティーを開催していますが、その後再開できないまま閉鎖になったのです。拠点を失って、フリースペース聖家族は閉鎖しますが、通信として、名前を変えて「映像情報」が中川繁夫の責任編集のもと、発行されることになります。同人を募集しますが、設立時にはテレビモアの岡崎、瀬川コンビが名前を連ねてくれただけで、写真関係からの同人はありませんでした。共同で制作する批評誌をめざしていましたが、中川繁夫編集の個人史になって1984年1月までに12号の発行をもって終わります。

 大阪には「オン・ザ・シーン」誌が発行され、友好な関係で、同人誌としての「オンザシーン」と個人誌としての「映像情報」が交流します。東京では「写真装置」が発行され「コぺ」が発行されています。メジャーにはなりきれなくてマイナーに徹しなければならない状況で、決して楽なものではありませんでした。マイナーな雑誌とはいえ発行するたびに三万円ほどの経費がかかりました。「オン・ザ・シーン」などは百万円ほどかかっていたのではないかと思っています。自らの目メディアを持つということの困難さは、しだいに緩和され、フリーペーパーが巷にあふれる時代が、そのあとにやってきます。それに伴って、写真の発表が容易に行えるようになります。

 2018年の現在、写真集の少部数発行が可能になり、発表される写真も大量になっています。1980年当時なら、発表する写真といえば、撮られた膨大な数からすれば、微々たる数で、いきおい厳選された写真が表出されていた時代でした。昔が良くて今が悪いとかは、まったく思っていなくて、大量に放出される写真群においても、惹きつける写真には惹きつけられる、そういう現状だと思えます。「映像情報」誌が優れていたなんて、評価はしませんが、個人メディアとして存在したという事実を伝えたいと思うところです。大きな写真ムーブメントのなかで、そういうこともあった、という記録として残ればいいなと、考える次第です。

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 1979年12月、京都の「聖家族」で中川が釜ヶ崎写真展をするという告知を、プレイガイドジャーナル(俗にプガジャと言っていた情報誌)に載せてもらったところ、その記事を見た「テレビモア」という放送局が取材したいと言ってきた、と石川昭さんから告げられ、約束の日時にビデオカメラを担いでやってきたのが「テレビモア」自主放送局を名乗っていた岡崎純さんと瀬川恵美さんでした。放送局といっても電波を飛ばす免許は持っていなくて、ビデオ作品にまとめて、上映会などで発表するという試みをやっていたグループでした。2018年の現在であれば、通信回線を使って、ライブ放送でもできる時代ですが、ほぼ40年前のことです。まだ若い二人で、瀬川さんは20歳になっていなかった。運営資金は、瀬川さんがシンガーソングライターをやっていて、ミナミのスナックで日に五万円を稼ぐという女子でした。そのときは天王寺の賃貸マンションを借りていて、岡崎、瀬川の他に、レーザー光線を放つ男子がいました。シンセサイザーを使い、レーザーを使ったステージをショーとして演出する、といったことをやったりしていました。その彼、彼女と、親しくなります。中川は30歳を過ぎていたし、瀬川恵美はひとまわり年下でした。瀬川恵美は、どうしたわけか釜ヶ崎をビデオ取材していました。キリスト教系の故郷の家だったかに出入りしていて、労働者を取材していた、ということに中川は驚いたのです。

 1982年になって、グループは「デルタ」という会社組織になって、長堀橋の近くのマンションの一室を賃貸するようになって、その一室を自主ギャラリーにしようとの話になりました。岡崎純がいうのは、かねてから中川さんが自主ギャラリーを持ちたいと言っていて、いよいよできることになったよ、ということで、写真と映像のギャラリーとしてオープンすることに話が決まり、当時、大阪を中心に若い写真家たちが集いだしていたので声をかけ「ザ・フォーラム」というギャラリーを開設したのでした。賃貸のマンションは家賃が20万円という豪華なもので、デルタは、小松左京さんの紹介でジョーシンの売りが管理とメンテナンスで月額50万円の契約を結べることになったのでした。この自主ギャラリー「ザ・フォーラム」については別に記述しますが、岡崎純の彼女だった瀬川恵美が、釜ヶ崎へビデオカメラを持ち込んで取材しているということで、取材の現場には立ち会わなかったけれど、記録された映像を、見せてもらいました。心がすさむ、釜ヶ崎取材には心が痛む、そういう作家としての心情を、共に釜ヶ崎で写真を撮っていた中川に、共感されていて、なにかと懇意にしてくれたと感じています。1983年の初夏に、瀬川恵美が自死するのですが、心情的に一番身近に中川がいたのかも知れません。

 岡崎純は「東方夜想会・白虎社」をビデオに収め、映像作品化しておりました。その流れの中で、中川が白虎社の取材に入ったように、思い起こされます。聖家族の壁面に写真が貼られていたのを思い出しますが、最初はライブハウスでの公演取材から始まったのですが、京都の稽古場へ出入りするようになり、練習風景などを写真に撮らせてもらっていました。公演には楽屋から取材させてもらって、いま、貴重な資料だと自認しています。ここに掲載した写真は、その白虎社の夏季合宿のときに撮った岡崎純と瀬川恵美のお二人です。写真カメラマンは中川が、ビデオカメラは岡崎純と瀬川恵美が、1982年夏、その合宿、鞍馬の奥の百井にて、古民家を使っての合宿でした。

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 1979年12月に、聖家族の壁面を使った「釜ヶ崎写真展」を開催します。たまたま1979年であったわけですが、そこに至るまでの数年間、そしてその後、という話になります。ここでは、1979年12月に至るまでの経緯を記しておきたいと思います。ということで、1977年には、関西二科会写真部の会員名簿に中川の名前が載っているのです。当時のほとんどの資料を捨てているのですが、この名簿が資料として、手元にあります。いまでも二科会写真部という団体は、全国レベルで、カメラマンにとって、写真表現者としての頂点にたっている様相を見せています。どうも、なにか、違うな、と思い出すのがこの1977年から1978年ごろでした。どこがどう違うのか、ということはわからないけれど、違和感を感じていた。いや、こんなところにいていいのだろうか、といった違和感でした。いま思うと、それを遡ること10年近く前になりますが、1970年前後の学生運動の感触を忘れ得ないままに、至っていたのが、違和感の基底ではなかったかと思えます。

 1978年の秋、大阪を取材の対象にして「街へ」を再開します。西成区の釜ヶ崎へは正面からではなく、裏から入っていったことになります。天王寺から飛田のある山王へ、そこから堺筋を渡って三角公園の方に入っていきました。このルートはたまたまで、意識して裏から入ったのではなかったです。それからのことは別に書きますが、1979年の夏に、釜ヶ崎夏祭りのなかで「青空写真展」をやりたい旨を申し出てやることになりました。これが8月でその流れの中で、若い労働者が京都に聖家族って場所があるから、行こうというので、連れて行ってもらったのです。そのときに聖家族の壁面に数枚の写真「白虎社」の野外公演スナップが貼られていました。その後に、白虎社と遭遇するとはその時には思いませんでした。飲み屋「聖家族」は石山昭さんが代表で運営していて、話を交わすうちにぼくのことを信頼してくれて、ここで写真展をやろう、フルースペースを創ろう、との申し出に応えてもらえたのです。ただ残念なことに、1980年夏、場所更新の礼金が用意できなかったというので営業が続かなくなり、閉鎖となったのです。

 1979年12月、1980年3月、ここで釜ヶ崎の写真展を開催します。壁面に両面テープの印画紙を貼り付ける。六つ切り200枚ほど貼ったかと記憶していますが、天井にまで及びました。けっこう迫力あったと思いますが、ぼく自身としてはけっこう白々しい気持ちだった記憶があります。写真の関係者では浪華写真倶楽部の関岡昭介さんと伊ヶ崎氏が来てくださって、以後、関岡さんの職場へ、何度か尋ねていきます。そごうの眼鏡売り場だったかで仕事をしておられたのです。若い写真愛好者が、何人か聖家族へ観にきてくれました。自主ギャラリーを持ちたい連中でしたので、話を持ちかけましたが、彼らのイメージは「飲み屋」ではなく、自前で借りる専用空間イメージのようでした。東京では自主ギャラリーが話題を呼んでいて、その流れに乗る感覚でしたが、飲み屋の空間では彼らのイメージに合わなかったのだと思います。聖家族は、当時ヒッピーと総称される若者たちの聖なるイメージの象徴的な名称だったようで、そこは普通の青年男女でしたがフリーな生き方をしたい意識の集まる処でした。

 1980年前後、若い写真愛好者たちの間で、自主ギャラリーを持ちたいという願望がありました。此処では、この願望について、少し書いてみたいと思います。この願望が起こった原因というか、環境について、関西では1980年を軸にして、中川の記憶を基にして、起こったことを記述していこうと思います。自主ギャラリーは自主メディアとも置き換えられるかと思います。この自主メディアというときには、いまはネットがありますが、1980年当時は、出版物とギャラリー展示の方法がありました。出版物とはいっても印刷するわけですが、印刷は印刷会社に委ねないとできなかったところです。まだ一般のところでは、ワープロがなかったし、プリンターもなかった、そういうころです。自主メディアを思って、自主出版となると、ガリ版刷り、湿式コピーでコピーして帳合して本にする、これにもそれなりの設備がいりました。ぼくの発行による「映像情報」の2号までは手書き、タイプライターを使ったのは3号から、原稿を輪転機で転写して印刷する、というのがオフィスなどでは使われていました。まあ、こういう時代でした。

 ぼくは文学系できましたから、1980年を越えたところからは、友達グループで同人雑誌を発行しておりました。喫茶店でミーティングをしていたし、アパートの誰かの部屋で討論じみた話をしておりました。たしかに集まってわいわいする場が欲しくってたまらなかった。写真に即してゆうと、写真を展示するにはギャラリーの壁面、ということになります。メーカーギャラリーがあります。ニコン、キャノン、ミノルタもコニカもギャラリーがありました。これをメーカーギャラリーと呼んでいますが、ここに並べるには「一定水準の写真」であることが必要でした。一定水準ということについては別に記述することになりますが、審査があり、おいそれとは写真展ができない。なによりも実験的な試みが出来ない。続々と排出される写真イメージを貼りだす空間、それを自分らの手で開設し、維持しよう、なによりムーブメントとして、文学同人が集まってわいわいしていたアパートの一室、その壁面が写真を貼りだす空間となる、仲間内ではセレクトされるが、先生と呼ぶ審査員のセレクトではない。学生運動の流れもそうでしたが、既存の価値観にとらわれない視点を、求めて、自らの発表の場を持つという流れです。

 1982年5月、大阪は長堀橋のマンションの一室に「ザ・フォーラム」をオープンさせます。ビデオグループの岡崎純と瀬川恵美、それに写真企画の中川の共同でオープンに至ります。1970年代の後半から1980年代初頭に活動していた「オン・ザ・シーン」のメンバー、それに中川繁夫、畑祥雄、ビデオの岡崎純が共同で企画、瀬川恵美が運営、マンションの家賃は、ビデオグループテレビモア、その後にはデルタが負担することで始まります。実質の関西における自主ギャラリーです。1983年の初夏、運営者瀬川恵美の自死により、閉鎖することになります。しかし、ザ・フォーラムは、参加者が共同でお金を出しあう、という形式ではなくて、ビデオグループが稼ぐお金で場所を運営するというものでした。自主ギャラリーをひとつのムーブメントとするなら、1980年代前半で、一応の終焉を迎えることになります。個人が主宰するギャラリーが起こります。東京には佐藤元洋が主宰した空間があったが、佐藤の写真展以外の写真愛好者の展示には至りませんでした。その場の管理者が写真作家である場合は、管理者の写真を展示する空間としてのギャラリーで、その周辺に持たない仲間が集まる小ボス体質のギャラリーです。フリースペース聖家族がそうであったし、写真壁がそうであったと思っています。

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