現代表現研究

現代表現研究所のブログです。

2018年09月

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 季刊釜ヶ崎を編集発行し、映像情報を編集発行しながら、社会と写真表現の方法を模索していた中川が遭遇したのが東松照明さんでした。1981年末から京都取材に入られた東松照明さんでしたが、京都に住まれることはなく、東京から通いで京都へ来られていました。京都へ来られるたびに電話があり、会わせていただきます。いろいろと写真についての話を交わしていただきました。写真そのものについて、写真の社会的なありようとか、写真家集団のありかたとか、表現することのとらえ方とか、話題はいろいろでした。東京の動向、カメラ毎日の西井一夫さんの話題、西井はこう言っているが、中川さんはどう思う、ということをよく訊かれた記憶があります。中川のほうからは、ワークショップ写真学校の話、沖縄の宮古大学の話を、聞いていました。京都で、何ができるか、話題は、京都で大きな枠組みで写真を考える装置が必要だろう、ということに及んでいきました。京都は日本文化の源泉だし、伝統芸術が林立するなかで、写真を考える、というフレームワークです。何度か話題をいただき、全体構想をイメージしながら、映像情報の中身を作っていきました。フォトハウスという名称は、そのなかで出てきた名称で、バウハウスをもじったフォトハウス、というイメージでした。
(続く)

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 中川が釜ヶ崎に関わるようになる経緯は別途書き上げることにして、ここでは1979年夏の青空写真展を終えてとりかかった「季刊釜ヶ崎」という雑誌について書き残し、並行して発刊した「映像情報」について書き残しておきたいと思うのです。釜ヶ崎という処が日本の都市の大阪にある。そこは怖い所だ、近寄ってはいけない。世間という言い方があるとすれば、世間一般では其処を怖い所だとのイメージが蔓延していた。そういう場所へ入っていって写真を撮りだした必然というのがあるとすれば、それは何がそうさせたのか、中川にとっては解明できないまま、現在2018年に至っています。理屈的には、都市の構造というか人間社会の集団に、貧民窟が形成され、病んだとされる人間が集まる場所、ということになるようです。日本の場合、国土が都市化して成長するときに必要な労働力をプールしておいて供給する地として機能してきた側面があります。ヒトのメンタルに及ぶと、内容が混沌としてきて、語りようがないように思われるところです。

 そういう場所に入って写真を撮って、現場を世間に認知させるための手段として雑誌発刊を思いついた中川が、労組の委員長をしていた稲垣浩を発行人に仕立てて編集メンバーを集め「季刊釜ヶ崎」という雑誌を発行したのです。世間向けに発行するという初めての試みだったようで、1979年12月に発行するやいなや話題を呼んだ。当時はまだ持ち込みでも書店に並べてもらえた時代で、紀伊国屋、旭屋、等々の書店をまわって置かせてもらって売り上げる。創刊号は書店をまわって置かせてもらい、活動家に売ってもらいしながら、1984年第10号まで発刊して終えました。中川は編集兼写真と文の作品を載せていきます。当地では労組分裂などのアクシデントもありながら、発刊していきます。中川の編集意欲も衰退してくるなかで、諸般の事情により休刊しました。その後に復刊との声もありましたが、復刊されることはありませんでした。

 一方で、中川は同時期に「映像情報」を発刊します。1980年8月に第一号が発行されます。写真映像の領域で同人を募って編集発行を目論みますが、結局のところ個人誌として発行されることになります。内容については別途にしますが、関西でカメラクラブで研鑽してきた中川にとって、そことの決別に至るのは、釜ヶ崎取材と大きくかかわっています。甘ったるいカメラクラブの制作方法から、人間を捉える写真表現の在りかたを模索して、必然的に決別しなければならなかったのです。写真の世界では一人になって、断絶し、そこから起ち上る方法として、映像情報の編集にかかったのでした。1984年1月に第12号を持って終えますが、その時には、新たな構想が芽生えておりました。いわゆる「フォトハウス構想」でした。2018年のいま振り返ってみると、世の中全般が今以上に政治の動向に関心があったように思われます。写真表現においても政治に密着した側面からのテーマの選び方というのが、濃厚にあったように思えます。1984年には、中川自身が行き詰ってしまって、表現することから離れ、サポートする側にまわってしまうのですが、それは時代精神の屈折点だったのかも知れません。
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飲み屋「聖家族」のこと1970年代から80年代へ
 1979年夏というのは、中川が釜ヶ崎において青空写真展を開催したときで、たぶんその時にある青年から声をかけられ、京都に「聖家族」という飲み屋があるけど行きませんか、という誘いがあったと記憶しています。それからしばらくして、京都は河原町蛸薬師の木屋町へ抜ける道を入って、曲がったところにバラック小屋がありました。そこが飲み屋「聖家族」の空間でした。まだ明るい時間で、店としての営業はやっていなくて、主宰者の石山昭氏とお目にかかったのです。細部は覚えていませんが、石山昭氏と意気投合したと思うんです。その時にはここで釜ヶ崎の写真展をする、ということを決めたのです。聖家族というスポットが飲み屋であることは間違いないのだけれど、その時、中川には流浪する若者の溜まり場、仲間を求めて寄り合う溜まり場、ということがわかりませんでした。

 中川に即していえば釜ヶ崎で写真展をおこなうという、想像すらできないようなことを開催したという流れから、この世の不条理を告発するという立場に立って、「季刊釜ヶ崎」という季刊誌を発行しようと当時釜ヶ崎日雇労働組合委員長の稲垣浩氏を代表に仕立てて、当地で編集部を構成し、編集活動に入っていました。経験的にいうと、70年代初めの同人誌「反鎮魂」への参加と編集の経験があったから、季刊誌編集発行に取り組んだのでした。この流れと、聖家族を知って活動の拠点としてリンクさせたいと考えたと思う。違和感なく、聖家族での活動を、主宰者の石山昭氏に提案できたのだと思います。ヒッピー族というか、流浪の民というか、中川は公務員する迄に至って社会とリンクしていたけれど、そうではない連中、決してドロップアウトした連中、とは思えない一群がいて、それらの連中がイメージ的には、釜ヶ崎を包みこみ、聖家族を支える男女がいる。そういう場所として「飲み屋聖家族」を、今、改めて思うのです。

 面白い運営だ。中川が体験する限りの範囲だけど、夕方に一番の客が来て、ワンコインを預かって、それで買い物に行くのです。新京極に西友があって、そこの食料品売り場で、ウインナや蒲鉾といったつまみになるものを買って、少しだけ料理して、客に食べさせ、お金をもらって、再び買い物に行く、食品を加工することで倍額を得て、店を回転させるというのでした。夜には沢山の若い連中が集まったように記憶しています。男子がいたし女子もいました。この場所から何ができるか、まさか革命を起こそうなんてことは、すでに当時には考えてはいませんでしたが、変革、人間のとらえ方、基本的に人間があるべき姿とは、なんて考えていたものです。「いま、写真行為とは何か」という手作り百部の和綴じ本を作りましたが、結構、反体制とは言いませんが変革を求めていました。変革は現状を変えることで、今もって、この変革することをベースに置いて、様々な活動に参画しているところです。資本に属さない、手作り、草の根運動が、脈々と社会の周辺でおこなわれていますが、中川の基本理念は、反資本というところに、現在までも至っています。

 ほんとういうと、ヒッピーと呼ばれた連中のことを、その心情や、そこにいたる社会の仕組みなどを解き明かしていかないといけない、と思うところですが、客観的な研究というレベルでは出来なくて、中川ができることを語れば、自分の生きた道筋を記憶の中で書きだし、自分ながらに検証する、このことだと思います。いま、このシリーズをおこなっていることは、そのことです。釜ヶ崎での写真展実行から聖家族へ、テレビグループモアとの交流、そうして暗黒舞踏の東方夜想会白虎社との出会い、東松照明さんとの出会い、1984年のフォトハウス構想発表と実践、という流れが作られたと、思い出し、系統づけていますが、今2018年、すでに四十年が過ぎていて、時代のテクノロジー大きく変換しています。昔はよかった、なんてことは一切言いません。温故知新、これには賛同します。新しい領域をいかにして明るみに出していくか、これが今、中川の最大課題だと考えているところです。

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 1981年12月大晦日だと東松さんはおっしゃったが、京都に来られた。京都を取材するためです。四条木屋町を上がったところの旅館に宿泊されていました。中川の自宅に電話をいただいたのは正月の4日の夜8時ごろでした。正月の間、金沢におもむき京都を不在にしていた中川は、突然の電話に、驚きました。東松ですが、と名乗られ、京都に来ているが会えないか、というのです。そこで午後9時、一時間程後に、三条河原町の六曜社でお会いすることになりました。その日の昼間には、金沢の内灘を訪れ、そのまま急行列車で京都へ戻り、自宅に戻った直後でした。正月以来何度か電話をいただいていた様子で、ようやくつながったということを会ったときに聞きました。六曜社へ行くと、奥のテーブルに革ジャン姿の東松さんが、こっちこっちというように手招きされ、にこやかなお顔で、初対面、挨拶をかわしました。中川は、気が動転して、会話ができない感じで、東松神さま伝説をまともに受けていたところでした。

 東松照明さんの京都取材は、沖縄から東南アジアを舞台にした太陽の鉛筆、それから部分的に発表されていた桜のあとをうけて、京都がテーマだと、おっしゃるのでした。写真家東松照明を、そのころ写真家研究の対象として、会に所属していた田村くんと米田さんと研究していたところで、それまでの東松照明さんの軌跡は、アサヒカメラで、東松照明の世界展を特集していて、ざっとわかるようにされていたところでした。それからしばらくは、週に一回ほどのペースで、東松照明さんと会って、食事を共にし、ワインが主のお酒を飲む場があり、祇園のスナックへ行く、というようなプライベートなお付き合いをすることになるのでした。東松さんの写真集「日本」「11時02分長崎」「太陽の鉛筆」それらを話題にすることはあまりありませんでしたが、中川の興味は「東京ワークショップ」のこと、沖縄での「宮古大学」のことでした。東松照明さんが居る処には、そのころ語られはじめたワークショップという内容を軸にして、写真家の活性化が起こる、という神話です。京都ワークショップ、という仮説がおぼろげながら東松照明さんから中川に伝授されだします。

 「いま!東松照明の世界・展」の大阪実行委員会が組まれるなかで、この展覧会への実行をあまりよくは思っていらっしゃらなくて、むしろ巡回展を中止したい、ということを言いだされたのです。それは相当悩んでおられたが、福島辰夫氏には伝えているとは言っておられたが、中止にはならず、各地に実行委員会が立ち上がる状況でした。大阪展は、中川が実行委員会で東松さんの意向を伝えたけれど、福島辰夫氏が来阪されて、議論したところでした。結局は、大阪展は通天閣と大阪現代美術センターの二か所で同時開催する、という決定になっていきます。展覧会開催の設営には、通天閣は大阪写真専門学校の学生が担います。中ノ島の大阪現代美術センターの設営は、関わるメンバー一同で担うことになりました。通天閣のテープカットには東松照明さんがハサミを入れられます。表立っては平穏に展覧会が開催されていきました。京都では、東松照明さんを囲んで語る場がいくつか設けられます。オルグするといえばキナ臭い匂いがしますが、京都ワークショップの立ち上げをするためのメンバー集めです。このことは東松照明さんが京都へ頻繁に来られていた3年間には成熟しませんでした。1984年秋に、中川の手元からフォトハウス設立準備会の案内を発することに至ります。フォトハウス構想の発表には、東松照明さんは時期尚早だと言われましたが、切羽詰まっていた中川からは、構想だけでも発表ということで、東松さんに承諾を得て発出したのでした。


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 1981年11月に開催した「フォトシンポジウム京都」の討議のなかで、写真集などを見る場所がない、という現実に気づいたところで、図書館に写真集を集めよう、写真集の寄贈運動をやろう、という発案を、中川に話したのは畑祥雄でした。話が具体化するのは年が明けて1982年1月、畑と中川は、国立民族学博物館の梅棹館長を訪ねます。30分間の面会で、図書館に写真集を集めたいが、どこの図書館がいいかとの話になって、面会のその場から京都府立総合資料館に引き受けていただくことになり、その直後には総合資料館を訪問しました。具体的には6月1日に贈呈式を行い「写真集コーナー」がオープンすることになりました。

 呼びかけ人会が組成され、そのメンバーは岡田悦子(ギャラリーDOT)、畑祥雄(写真家)、井上隆雄(写真家)、堀内義晃(写真家)、中川繁夫(写真家、映像情報編集者)の五名です。「図書館に写真集を!呼びかけ人会」の連絡先はギャラリーDOTになります。寄贈写真集の送り先は82年6月1日までは京都府立総合資料館内「図書館に写真集を!呼びかけ人会」宛て、6月1日以降は「写真集コーナー」宛、ということになった。記者会見をして、新聞にも記事として紹介され、集まった寄贈写真集はおよそ600冊と聞いています。

 1981年末から1982年6月までの京都と大阪のムーブメントをみると、自主ギャラリー「ザ・フォーラム」のオープンが5月、図書館に写真集を!の写真集コーナーの開設が6月です。双方に共通して関係するのは、映像情報の中川と写真家の畑です。ザ・フォーラムは中川が主導し、図書館に写真集を!は畑が主導します。東松照明の世界展開催のための準備会から実行委員会組成までが行われるなかで、1981.11のフォトシンポジウム京都開催、その流れでで図書館に写真集を!のムーブメントが起こります。フォトシンポジウムの参加者に図書館に写真集を!を呼びかける五名の名前があります。人が集まる共同作業に、メンバーがアメーバのごとく重なりあい離れあっていくのがわかります。


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