現代表現研究

現代表現研究所のブログです。

2018年10月

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の定義
nakagawa shigeo 2004.6
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写真の定義
いまさらなにが写真なのっていう向きも多いなかで、写真って何?って問うこと。
写真の定義なんてあまり見かけないでしょ~
定義するまでもなく見たら写真だってわかる代物だもんね(笑)

でもあらためて写真の定義をするとなるとけっこうややこしいんです。
それではここで試しにやってみましょうか。

写真ってカメラという道具をつかって作る一枚の絵のようなもの。
絵のようなものだけど「光」が自動的に描き出すもの。

これって正解ですか?どうなんでしょうね。

とするとよく似たものにコンピュータグラフィックス、
俗に「CG」っていってるあの代物のことです。
そりゃCGにもいろいろありますけれど、
まった光学機器のカメラを使わなくてコンピュータの中で基絵からつくる。

こうして出来上がって紙にプリントアウトしてくると、
これはあたかも写真のような姿になっていますよ~

実写の写真を取り込んで加工しているCGもあれば
同様にして写真を加工して「写真」っていうときもありますよ~

こうなってくるとですね
写真とコンピュータグラフィックの境界線は何処なんでしょうかね。
かってあったと思われる写真の定義がぐらついていませんか?

そんなことどうでもいいんや~写真は写真なんやから~ね~
といって済ますこともありですが、そうとばかりもいってられない時代ですよね。
やっぱり理屈として定義しておかないといけませんよね~

結論はでません、ボクが定義したって学者先生ではないですから(笑)
広辞苑にはどのように表記していくんでしょうね??
だれか学識経験者って言われているヒトさんよろしくお願いしますね。

写真の理論

ある展覧会の会場でルーマニア育ちで留学中の人とこんな話を交わしました。

・写真の理論ってロラン・バルトがありますよね
・そうそうロラン・バルトの「明るい部屋」でしたね
・実際、理論を勉強しても役にたたないです
・そうですね~写真の理論って写真のことでしょ?
・だいたい写真の中味って写真以外のものだから写真のこと考えていても役にたちませんね
・そうかも知れませんね
・ロラン・バルトさんだって、たまたま写真というモノを出してるけど語る背景は別理論でしょ
・それにそれってもう20年以上まえの理論というか分析でしょ?時代かわってるよね
・そうだね、世界の構造が変わったですよね
・ルーマニアも変わったでしょ?体制の根底そのものが・・・
・だとしたら、いまの世界の構造にたった写真の理論ってのが必用なのかもね


なんか訳のわかったような判らないようなお話ですが
写真のことを考えるのにどうしたらいいんでしょうかね?ってよく訊かれます。
そんなとき、写真を見ていても技術のことしか出てこないです、
写真を捉えるのは、その時々の哲学的風潮とか、経済的風潮とか~
社会の風潮を分析する学問の援用をうけてしか成立しないのではないですか~
こんな答えを用意しています。

わかったような判らないようなお話なんですが
写真ってなんか学者先生から継子扱いされてるみたいなんですね
そんな感じをうけています。

社会の動向と風潮ですね、
現在だったらローカル化とかルーラル化の流れがありますから
この枠組みのなかで写真というものを捉えてみるのも方法かも知れないんです。
新しい写真学校では、こんなふうに提案しようと思っています。

写真の中味

写真を愛好する人たちが大勢います。
写真ってなによりもとっつき易いしバックアップ体制も完備されていますしね。
写真を撮るという目的をもつだけで旅行の中味も豊かになるようだし、
子供の成長記録だとかで家族が歩んできた足跡をアルバムに残しますから、
現代人にはなにかと重宝なツールだと思っています。

そういった愛好家たちの層に支えられて作家と名乗る人たちが存在します。
人間の欲求のなかの自己実現を果たしてくれるツールとしての写真。
そのような営みとしての写真制作作業の中味、
つまり写真に撮られる被写体の中味といえばいいでしょうか。

この中味をどうするのか?という問題に直面したとき、
カメラを持ったひとは、写真というものが社会的存在としてあることに気づくのです。
さて、何を撮ろうかな~~、って詮索して何かを撮り始めます。

大きな物語としての戦争の現場や小さな物語としての私とあなたがいる現場。
写真には160年余りの歴史がありますが、いつもその中味をどうするのかが、
その時代時代のテーマとなってきたように把握しています。

現代はよりいっそう写真の大衆化時代です。
携帯電話の普及数以上にカメラ台数はあるわけです。
「写メール」時代なわけです。

プリクラ、写メールといった写真のある日常のなかにこそ、
写真の中味が生成しているように感じますね。
概念でいえば「小さな物語」なんですね。
写真の主たる中味はこの小さな物語のなかそのものなのかも知れませんね。

生活スタイルそのものが多様化しているとはいえ、平均フラット化してます。
そこでこの時代に有効な存在感っていうのが「私とあなた」のリアリティ関係。
そんな視点で写真テーマの動向をみていくことから何を見るか、が課題なのかも知れないですね。

その根底に「記憶」と「記録」ということの意味再構成があるように思っています。
nakagawa shigeo 2004

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真のテーマが向かうもの
 nakagawa shigeo 2004.6
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写真のテーマが向かうもの

写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。

nakagawa shigeo 2004



☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の範囲 つまりお金ではない
nakagawa shigeo 2004.6
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写真の範囲

写真の範囲ってどういうこと?
そうなんですね、何をもって写真とするのか、っていう区分けの問題なんです。

かってカメラ装置とフィルムが創りなすものを写真っていってました。
でも現在はカメラ装置とフィルムが無いところで写真に似たものが創られる。
たとえばコンピューターグラフィックス、これって写真の仲間に入れてはいけませんか?

物理・化学処理によって作り出されたものが写真だとしたら、
デジタル写真ってのは化学処理しないですね。
現像のための薬品使わないではないですか。
暗い部屋(暗箱)から明るい部屋(コンピュータ)の方へ、
処理の方法が変わってきたじゃないですか。

カメラ、フィルム、薬品、コンピュータ、デジタルデータ・・・
いま朦朧としながらも写真って呼んでる範囲におけるハード装置です。

べつにどうでもいいことなんかも知れません。
明確にしないほうがいいんかもしれませんね。
いま、世の中って混沌だし混沌のままで表面すべっていったらいいんかもね(笑)

これまでの分類方法では現実に即さないようですから、
あえてこうして発言してるってわけです。
つまり写真学校っていってるんですけど、
なにを学んだり研究したりする学校なんですか?
っていう素朴な疑問があるんです。
これを解明していかないとやっぱりやっていけないでしょ~(笑)

これもカリキュラムに入れないといかんのやな~って思ってます。



つまりお金ではない・・・

写真学校フォトハウス京都の考え方

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~なんていうのは満更ウソではないですね、なんでも出来ちゃうですね。
お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、教育産業っていうんだそうです。
確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですからどうしようもないシステムなんですね。

でも、この経済活動を成立させないところで写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。
教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、人間の欲望って上昇志向ですね。
競争心ってのも必要ですね。

戦争があります。絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸にせめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。
この「あい写真学校」「写真ワークショップ京都」いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が作ったもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「あい写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。

そ~ゆう価値観じゃないところで、ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。
nakagawa shigeo 2004



☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真の限界
nakagawa shigeo 2004.6 2010.3.14
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写真表現ゼミ 2011.8.21

写真の限界

写真のことを考える枠組み作りが、京都写真学校の仕事です。
そこで今日は「拡大する写真の現場」から写真の限界をとらえてみます。

写真ってけっきょく物質としてあるものしか写らないんです。
すごく当然当たり前のことなんですがそ~ゆうことなんです。
だから写真の限界ってのは物質でないものは写せないってことです。

物質としてあるものは写真にすることができる。
宇宙の写真があります。
コンピューター処理して目に見える宇宙の姿の写真があります。
人体内部のミクロな物質を撮った写真があります。
遺伝子とかの写真です。

そうなんですね、写真に撮られるものってマクロからミクロまで
科学技術開発のおかげでもう際限なく拡大深化しているんですね。

1852年にパリで出版されたマキシム・デュ=カンが撮ったエジプトの写真からはじまって
写真は遠くのものを近くへ引き寄せる役割をになってきたんです。
旅行記や冒険物語として多くの記録を残してきたんです。

いつもその時々の写真の限界に挑みつつここまでやってきたんですね。
宇宙深部や人体内部の深~いところまで写真に撮られてきたんです。

でも見えるものしか写らないという原則は崩せないです。
これが写真の限界なんですね。

でもでもでもですね、写真は見えないものを見せようとしてきたじゃないですか!
表現っていうのは見えるものの背後にある見えないものを見せることじゃないですか?
なんか、ややこしくなってきたな~。

このややこしいところを検証していくのが、
新しい写真学校の役割のひとつかな~
そんなふうにも思っています。
nakagawa shigeo 2004

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
デジタル時代のフィルム写真
nakagawa shigeo 2004.6 2010.3.14
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デジタル時代のフィルム写真

フィルムを使ったモノクロ写真を、
精確には「ゼラチン・シルバー・プリント」とも呼称しています。
読んで直訳ですね、糊状ゼラチンに銀を混合したものを紙に塗って作ったものです。

この銀のかわりに金を使うと「プラチナ・プリント」ということになります。
ゼラチンのかわりにゴムを使うと「ゴム(ガム)プリント」ですね。

プリント写真には「銀塩」「非銀塩」という分け方もあります。

いずれもこれらは物質を組み合わせ変化させて写真を作る方法です。
ですから出来上がりの基本形は物質としての「紙」ということになります。
この手法による歴史時間は、1826年ニエプスによる光の定着以来178年です。

一方で、デジタル領域で画像が作られるようになりました。
デジタル領域での歴史時間は約10年です。
出来上がりの容態はフィルム写真と同じように、プリントにするのが主流ですね。
写真とは、紙の上に画像を定着させるイメージが濃厚にあるためでしょうね。

さて、ここで時代の変わり目、フィルムによる写真は淘汰されるのかどうかですね。

写真を制作する主流はデジタルに移行します。
カタログのためのブツ撮りや報道写真etc・・・
もうデジタルカメラに移行していますね。

こうなるとフィルムを使うというのは特殊な方へ行くことになりますね。
そうです、現在の一眼レフカメラに35ミリフィルムという限定が、一気に拡大します。
大型カメラによるフィルム写真、
ピンホールカメラによるフィルム写真(厳密には印画紙写真かな)
カメラは手作り、カメラオブスキュラ、フィルムも手作り・・・・
そういう時代になりますね、数十年後?

デジタル写真が、フィルム写真178年の後継物となって、
出来上がりの基礎形態をとって替わったときです。
フィルム写真は、新たな道を歩まなければならない宿命を担いますね。

もうゼラチンシルバープリントが主流ではなくなり、
歴史のなかで試されてきた制作手法の全てが等価になります。
巷に現れているピンホール写真やトイカメラによる写真。
すでにフィルム写真があらたなる展開を見せ始めているんですね。

あとはアーティストの感性に委ねられた作品の出現を待つばかりですね。
nakagawa shigeo 2004.9.22

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
デジタルカメラ、デジタル写真の話
nakagawa shigeo 2004.6 2010.3.14
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里博文とテリーキングWS ブロムオイル技法 2010.1.31

デジタルカメラ、デジタル写真の話

デジタルカメラで写真を撮る。いま、2006年7月です。前にここにテキストを書いてから、2年ほどの月日がたちました。その後、感材では、メーカーなどでは、印画紙の生産をストップするところもあり、フィルムカメラの生産を中止すると発表したカメラメーカーもでてきました。
つまり、写真をつくるための道具、カメラは、デジタルカメラへと大きくシフトしたことになります。

フィルム写真からデジタル写真への移行は、連続発展したモノなのか否か、という議論があります。写真産業界のなかでは、フィルムからデジタルへシームレスな移行を設備面で考え、商品化していますが、写真表現の方法と発表の方法についていうと、デジタルになることで、その環境が大きく変わることになりました。

デジタルカメラは、WEBネットワークの中核となるパソコンの端末です。静止画像をつくる端末です。文字を打ち込むキーボードと同列の器具だと見るのが正しいでしょう。つまり、デジタル写真の主なる活躍の場は、WEBネットワークの中にあります。だから、デジタルカメラ&画像は、ネットワークの中で使うことに向かわないと、いけないと考えています。

特にコンテンポラリーアート分野や、メディアアートなどの分野で、写真を素材として使っていくことが、いよいよ求められている時期だと考えています。デジタルカメラの種類のなかに、携帯電話のカメラ部分をも加え、それぞれの使い方をアートの形として展開することができる時期に至ったと捉えているのです。

デジカメはイージーだ、フィルムは手間がかかる、とか、デジカメはイージーな装置だから、写真もイージーでいいのだ、などと思っていたら大間違いです。デジタルカメラが持つ機能を、十分に発揮するイメージ制作と発表の形を考えていくのが、道筋だと考えています。
 (この項、2006.7.9 by nakagawa shigeo)

 1、デジタルカメラ

写真好き好きの知り合いと話していて、当然のようにデジカメ買った話になりました。
一眼レフデジタルカメラで700万画素のをやっと買った(けっこう高価)っていってました。

それからハードウエアーのはなしが、つまりデジカメの性能についての講釈があって
フィルムカメラとデジタルカメラの比較検討(あくまでカメラの話)の講釈があって
まあね、最新機材をもったことの自慢話ってわけです(笑)
そういえば私のデジカメはキャノンの500万画素、昨年10月に購入しました。
けっこう使い勝手いいです、小型だし、素人さんのように見てもらえるしいいですね^o^

こういう話ってけっこう主流なんですよね消費者業界ではね
でもちょっと違うんじゃない?って申したいわけ
それは道具のはなしであって何をつくるの?ってことに話がおよばないとね、って思うんです。
それは料理人が包丁の話をするのとおなじだよ
絵描きさんが筆と絵の具の話吟味するのとおなじだよ
そういう話題も当然必要だけど肝心なのは中味の問題でしょ?

形骸化してるな~肝心なのは中味をどうするのか、ってことですよね
この中味をどうする?ってことを話したいんです。
「写真ワークショップ」っていうのは、この中味をどうする?ってことを話する場なんです。
そのように組み立てていくんです。

ハードウエアー・デジタルカメラの使いこなしは当然だけど
それだけじゃないいんですよ、というところから始めないといけないみたいですね。
これは入り口です。

2、デジタル時代の写真

写真の学校をつくる計画の中でなにが中心かといいますと、
デジタル時代の写真表現とはどういうものだろうか、ということです。
写真術が発明されたのが1839年です。
それから160年余りが経つなかで
映画が生み出され、テレビが生み出されてきました。

いまデジタル時代に写真が一番古いメディアとなった感がありますが
これはフィルムの時代における捉え方だと思っています。
静止画像としてのデジタル写真は、おそらくフィルムとは違うものです。
その違うものだ、ということを軸に考えをめぐらせていくこと。
これが必要な視点ではないかと思うのです。

写真が発明当初の英国でタルボットという人が
「自然の鉛筆」という写真集を編みます。
そこには写真の効用というか利用方法が書き述べられています。

いまあらためてそのことを思うと、フィルムとデジタルは似て非なるのも、
そういう論の立て方もあるのではないかと思われるのです。

新しい表現の方法がどんなものかの想定はこれからの作業です。
ネット上では「あい写真学校」を、
実地では「写真学校・写真ワークショップ京都」を、
その相互共通カリキュラムをこれから組み立てていきたいと思っています。

3、デジタル写真のはなし

デジタル写真が主流になってきました。もうフィルムの時代は終わった、って感じです。
どこの家庭にもカメラがあって、子供の成長記録とかペットの写真とかを撮って、
そのフィルムを写真屋さんに外注していた時代から、手元のPCに取り込んで処理できる時代になってきました。

そのうちの何人かは写真を自己表現の手段として使いたい欲求が芽生えてきます。
そこで待ち受けているのが商売やさん、カメラと写真産業はおおきなマーケットです。
ひところはビデオに移行していた消費者がデジタルカメラを使いはじめました。

もう家電製品ですね。
そこでカメラの形が高級イメージのある一眼レフ型に移行し始めているようですね。
価格もけっこう高くなっていきます。
消費者としても高級カメラを持つと自分も高級写真が撮れるような思いが出てきます。

そんなんじゃないんよな~ってところからの出発。
写真って何ナノかな~
ふっとそんな思いが立ち上ってきたときに商業の枠ではなしに
写真というものを考え捉えていくフレームが必要なのですね。

そのことを基本軸において写真を考え学ぶ場所「学校」が必要なわけです。


写真って映像文化の原点の形だと思うのですが
いま、フィルム時代からデジタル時代に移ってきています。

写真のデジタル領域では、デジタルカメラとパソコンとインターネットがあります。
明らかにこれまでの写真の社会的存在の形式が変わったと認定できると思います。
写真に撮られる内容は置くとしても、処理方法と発表形態が一変してるんです。

このような場所からみるとネット上で多くの写真が発表されています。
カメラメーカーはそれぞれに個人が写真アルバムをもてるようにしています。
個人がそれぞれにホームページをもつことが当たり前になりましたし
そこには自分で撮った写真が多く掲載されています。

これまでのフィルムベースの写真の制作プロセスと発表形態がよいのか
それともデジタル領域での制作プロセスと発表形態がよいのか
文化の過渡期にあってあたらしいデジタル領域は
従前のフィルム写真の方に回帰しようとしているようにも見受けられるます。

これは価値の軸をどこに置くのかということなんですが、
わたしたちの写真経験160年余はフィルムベースだったから
その領域で培われたノウハウに価値軸を見ているんですね、きっとね。

デジタル写真にはデジタル写真固有の場があるはずです。
その場所を作り出していくことが新しい写真学校には求められていると思います。

写真の内容が求めていくテーマにおいても
デジタル時代だからこそのテーマが導かれてくるものと思います。

写真がギャラリーやミュージアムの壁面を飾っていた形態から
バーチャル空間へ解き放たれていくとき
そこに新たなコミュニケーションの形が生成してくるものと思います。
この新たなコミュニケーションの形にこそ注視していくことが大切だと思います。

写真学校フォトハウス京都の求めるカリキュラムはこのあたりにありそうです。

5、
デジタル写真デジタルカメラ開発にかける日本企業の番組がTVで放映されていました。
たしかにカメラ生産の技術水準が世界をリードしていることは事実のようです。

ところでソフトウエア、コンテンツの生産はどのような現状なのでしょう。
共同体の文化度が高いと雑誌や出版物に多く利用されるし
カメラマンの写真展もあちこちで開催されています。
インターネットのページを覗いてみてもし主流は写真イメージです
そのうち動画が中心となると思いますが、
個人がたしなむには写真が簡便でなじみやすいです。

写真表現がヴィジュアルアートの一角にあると認定すると
上記の話ではちょっと対応できにくい代物となってきます。

そこでは写真の生産と消費の側面からの視点ではなくて
人間のこころの問題として写真を捉える視点が求められると思っています。
情報化の時代はこころとこころが直接に結びついてく時代だと思っています。
新しい社会制度としてのインターネット時代を迎えているデジタル環境のなかの写真!

そんな時代のなかでの写真の在処を探し出していくことが
新しい学校には求められているのだと考えています。
その磁場にはなにが起こってくるのでしょうね~

nakagawa shigeo 2004

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
nakagawa shigeo 2004.6.9~2010.3.14
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京都写真学校第五期 2009.5.10

写真とこころ-心-

ここでは、<写真っていったい何なの?>という、わかったようでわからない話を、いろんな角度から話題としています。

写真について、いろいろとテーマを羅列していくことで、おぼろげながらでも
「写真の現在」という立場を浮上させられたらいいな~と思っているんです。
そこで今日は、写真と人のこころとの関係の外形を、少し探ってみたいと思います。

人の「こころ」の解明ということが現代的なテーマとなっています。
生命科学の領域で脳の構造解明や記憶生成のメカニズムなどがあります。
心理学の領域では無意識領域の深層の解明などがテーマですね。

これまで非科学的な領域とされていた宗教や芸術領域というのも、
科学的手法で論じられるようになってきているように思います。
科学の現代的なテーマのひとつが「こころ」の解明に向かってきていると思います。

人間とは何ぞや、という問いが永年の課題で、
これは哲学や文学の立場から思考されてきました。
現在では人間の二面、身体と心(精神)を統合していく方向で
「こころ」とは何ぞや?ですね。

写真という手法が現れてきたの19世紀半ば、写真もこの問題を孕んできたんですね。

写真を撮ることと見ることの間に、コミュニケーションが成立するという立場からは、
写真の介在は、こころとこころのコミュニケーションの形、として論じることができます。

では、こころとこころのコミュニケーションの形ってどういうことを指すのでしょうか?

これまで言語学・言語論の立場を援用しながらの写真論として語られてきたんですが、
いまこれからの論立てはこの拘束から解かれていくようにも感じています。

個の立場ということを基軸に置いた論から共同の立場への移行かとも思います。
個が個であって、自己と他者との明確な分離のなかでの言語・写真の立場が、
微妙にづれてきているのではないかと思うのです。

自己と他者という身体性を基本においた論から解き放たれて、
こころが交わる磁場のような場所でのコミュニケーションの成立ですね。
自然現象や生命現象の全体性のあらたな組みなおしにもつながるものです。

このことは感覚・感性のあり様の捉え方の移行のなかで、
個を超えるコミュニケーション、
境界のない意識感覚の発生としてとらえられないでしょうか。
写真がその先鋒に立っているのではないかとも感じています。

かってあったメッセージの他者への伝達という方式で捉えることが困難な写真群。
プリクラ、写メール、デジタル写真の時代の写真群。

写真においてコミュニケーションの形が変容してきていることは確かなようです。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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写真で気持ちを伝える

人が自分の体験したことを人に伝えようとするときってどうしますか?

会って言葉で話すというのがあります。
電話で話をするということがあります。
手紙、最近ならメールですね、これで文章にする、ということがあります。

この方法の中心にあるのは、音声(言葉)とか文章(書き言葉)です。
言葉や文章で状況説明すると同時に、体験したときの気持をつけますよね。

たとえばこんな話:
さっきね、道を歩いていたら乗用車と単車がぶつかるのを目撃したんです。
単車に乗ってた男の人がすっ飛んで、ああ、怖かったな~、心臓ドキドキしてしまって~~

今日は「写真で気持を伝える」という題なんですが、
写真では、交通事故が起こった瞬間の写真は理屈として撮ることができます。
でも、たいがいはその後の写真ですね。
ロバート・キャパっていう写真家が、
弾があたって倒れる瞬間の兵士を撮った写真がありますが、
これは運よくカメラを向けていたら、兵士が倒れた、その瞬間が撮れた、
だから貴重な写真として今に残されていて展覧会などで観る機会も多いですね。

でもその倒れる兵士の写真を見て、現実として写真家の気持まで伝わってきますか?
たぶんそこまで感じない人が多いんじゃないかと思います。

写真って具体的な光景が写ってるから状況ていうのは判りやすいです。
でも、撮ったときの気持を伝えるっていうのは、きっと苦手なんですね。

苦手だといいながらも、写真を撮ってるみなさん、気持を伝えたいと思っているんですね。
そうなんです、写真って、こころとこころのコミュニケーションなんです。
でも、これは究極の写真のあり方を言っているんだと思います。

客観的な事実を伝えることは得意です(といいながらこの言い方には異論があります)
でも一応ここでは、事実を伝えることが得意な写真、としておきます。

で、写真を撮った人のそのときの気持、これを伝えようとするんですが、
おっとどっこい、そうは簡単にいきませんね。
言葉や文章なら「哀しい」「楽しい」の言葉で伝わることが、写真ではなかなか伝わらないです。
「哀しい」とか「楽しい」なら、お葬式の場面とか、子供が遊園地でいもいっきり遊んでる表情、
これで気持が伝わってきます。
その場面を共有することで、一定の社会的に創られた気持の読み方を知っていますからね。

でも、そうはいかない場合が多いんではないですかね?
写真に写ってるものは判る(判らない写真も多々ありますが・・・)
でも、その写真を撮った人の気持がどうも判りにくい・・・
気持が伝わってこない・・・

でも写真ってやっぱり気持を伝えることなんだと思っています。
わたしとあなたが、気持や感情を共有することだと思っています。

そしたら、どうすりゃいいのでしょう?
これが、本題です。
今日は問題提起だけした感じですね。
追って、ああでもないこうでもないと、ぐるぐる回りながら、
わたしの気持をあなたに伝える方法を探っていきましょう・・・・

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
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2007年10月第三期写真セミナー風景

写真を私に見せる?

前回は、写真を誰に見せるの?ということでしたが、
そこでは、あなたに見せる写真、ということを導きました。

写真は自分を見つめていく鏡だ!っていうのが今日のテーマです。

自分っていったい何、または何者なんだろう?って・・・
こんな疑問を抱いたことありませんかね。
社会の器の中で相対として他人がいて自分がいる。
その自分っていう中味のことです。

写真に限らず芸術という行為にもおよぶことなのだと思っていますが、
この「自分を見つめる」ということが必要なんですね。
これは解けそうでなかなか解けないですよね、きっと。
でもこの「自分とはなに?」っていう問いを解いていく道筋が必要なんです。

他人のことはよくわかる、といいます。
他人を理解するのには、もちろんその時々の価値観に基づいて、
それに照らし合わせて、外面のこと、どこどこの学校出てるとか、
どこどこの会社でこんな仕事していて、立派やね、とか。
その反対の「けなし」もやりますよね。

でも自分のことを自分で考えてごらんなさい。
たしかに家族がいて、学校に行っていて、アルバイトして・・・とか、
自分の外回りの環境はわかります。

でもでもね、ここでも、そんな自分っていったい何?っていう疑問がでませんか?

写真を撮るっていうのは、いろいろ考えるんです。
何を撮ろうかな?自分の好きなアレを撮ろう!
そうして撮ったモノをみて、そのモノの自分が撮った意味を問い、
社会通念の枠にそって理解していきます。

やさしい気持を表現したい!楽しい気持を表現したい!
そうして、そのやさしさや楽しさの中味を撮ろうとするんです。
自分との対話っていいますが、写真というものを介して対話するんです。

こうして自分を知っていくプロセスのなかで、
作り出されてくる写真が作品となって残るんですね。
けっきょく自分とは何?っていう
最終の解答は見つけられなかったとしても、
自分の撮った写真を自分に見せていくことで自分を知っていくことになる。

まあね、判ったような判らないような、ぐるぐる回りのお話ですが、
自分に注目することって、けっこう現在的なテーマなんですよ!

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
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写真ワークショップ京都開講風景 2008.6

写真をだれに見せるの?


みなさん!自分が撮った写真って誰に見せます?
写真撮ることを仕事にしている人は別ですが、家族とか友達とかが多いですよね。
でも、仕事にしていなくっても、俗に趣味で・・・っていって
写真を撮ってる人がたくさんいます。

ここでは、プロとアマチュアなんて区別はしませんけれど、
写真を撮り出して、写真コンテストというのが方々であって、
そのコンテストというのに応募してみようかな~なんて思い出して、
写真グループの一員となって、せっせと写真を撮りはじめる。
また、写真を教えてくれるスクールを探して学ぶというのもありますね。

いずれにしても写真を専門に教える学校を出た人があり、
専門の学校は出てないけれど写真を撮ってる人があり、
写真をたしなむ人は、もうべらぼうに多い!

で、撮った写真を誰に見せる?っていうのが今日のタイトルなんですが、
ホント、誰に見せます?
家族の中でだけというのが多いですか?
旅行とかの記念写真類は旅行に同行した人がみますよね。
というように、身内や同僚や友達といった関係者の間で見る。

でも、コンテストに応募するとなると、第三者に見せることになりますね。
つまり、あかの他人さんに見せる、ということですね。
そのうち写真を撮ることが仕事になったらいいな~って思う人も多いです。
でも、これはほとんど実現しないです。
でも実現させる人もいますよね。

写真を撮ることが仕事になるというのは、見せる相手は不特定多数です。
雑誌とかギャラリーとかのメディアを通じて不特定多数を相手にします。
わたしは最近、写真をホームページに発表しています。
新しく学校をやろうとか、自分の考えを知って欲しいとか、
見知らぬ人に見てもらって、私の方へ振り向いてほしい!との願望があるからです。

このように見てくると、見せる相手は、
身近なひと=私とあなた=二人称の関係の中で見せる
知らない人=私と第三者=三人称の関係の中で見せる

でもでも、私が撮って私だけが見る写真っていうのありませんか?
私だけの秘密の写真?!=一人称の関係の中で見せる

この見せる相手の想定で、最近の傾向はというと、
二人称の写真が多くなっていますね。
「わたしとあなた」の関係の中に写真がある、という図式ですね。

写真の現在っていうとき、この「わたしとあなた」という水平感覚ですね。
これが基点であり、ここからの写真作りが始まるような気がします。
見せる人が見る人である、という関係のなかです。
二人の関係は、カメラを持ったか持たないかではないんです。
二人の関係のなかにカメラがあるという関係なんです。

このような写真の移転には、
上下から水平へという人間関係の変容も背後にあると認識しています。

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