現代表現研究

現代表現研究所のブログです。

2018年10月

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
357_5714
あなたの写真を撮る目的は何ですか?

何のために写真を撮るんですか?と問われて、あなたは何と答えますか。

写真が社会の記録媒体として重宝された時代がありましたが、いまや社会の記録媒体の主流はビデオ映像ですね。
ということは写真が社会的なステータスから使われ方の位置が変わったんです。

その変わり方というのは、よりプライベートなものとして写真が使われるようになった。
このプライベートに使う、ということが大事な視点だと思います。
個人のコミュニケーションの手段として、写真を使う時代ですね。

カメラもデジタルカメラが主流になってきました。
パパやママは、わが子の写真を日記代わりに撮っています。
いわゆる家庭アルバムに収められる家族の記録です。

また、友人とともにいるときに写真を撮りますね。
居酒屋でパーティーをしてるときなんて気分も乗っているし、もうふざけ気分で写真をいっぱい撮りまくりますね。

このような現状は、写真が芸術か否か、なんて無効であるようにも思えます。
あるいは、写真は記録である、これはまだ生き残っているかも知れないですね。
大きな物語の記録じゃなくて、個人のプライベートな関係の記録です。

個人のプライベートな関係っていうのは、おおいにテーマとなります。
大きな物語の記録から解き放たれた写真が、プライベートな関係になるんです。
そうすると歴史を見る視点も変わってくるんじゃないかな~。
日々作られるニュースの視点は個人の感情を刺激します。
特に個人のプライバシーにコミットするニュースねたですね。

報道の視点が個人のプライバシーに立ち入ることと、個人がプライバシーを公開することとは意味がちがうですね。
写真が撮られて公開されるとき、この意味の違いがなんであるかを語ることで、写真が家庭アルバムの位相から、時代の記録になる位相へ変わっていくように思います。

さて、あなたが写真を撮る目的は、いったい何なのですか?

なぜ写真を撮るの

-1-
なぜ写真を撮るの?どうしてこんな設問を立てたのかというと、だれもが何気なくパシャパシャとシャッターを押して、写真を撮っているんですけど、写真を学ぶことのなかで、たいてい、この問題に突き当たってしまうからです。
「なぜ」写真を撮るのか、なんて思っただけでも難しいじゃないですか。だから、普通はこんなことは深く考えない。でも、まま、行き当たってしまう習性のボクは、このことを考えるんです。俗にゆう理屈ってやつです。

あい写真学校ってのを運営してるんですけど、そこには技術習得だけではないですよ~って標榜してるから、あえて今回は、この問題を取り上げたわけです。で、あらためて、なぜ写真を撮るの?ってキミに聞くけど、どうですか?なにか答えが導けそうですか?

算数や理科は、答えが決まってるから、その答えに向けて問題を解いていきます。ところが、なぜ写真を撮るの?っていう問題は、決まった答えがない問題なんだと思っています。同じような問題で、判りやすくゆううと、キミが男だったら誰かしら女の子を好きになる、女だったら男の子を好きになる。なぜ好きなの?って聞かれて、自分で考えてみて、あれやこれやと想いめぐらしますけれど、どうですか?本当のところ、なぜだかわからない・・・。

ボクは男だから、男の立場でいいますと、好きになった女の子、着ている服が似合うから・・・とか優しいから・・・とか、なんとなく相性がいいんだよな・・・とか、あれやこれやと納得できる答えを考える。でも、やっぱり本質のところわからない、これが実情ではないでしょうか。

いわば、なぜ写真を撮るの?って聞かれて、あれやこれやと考えをめぐらすけれど、やっぱり本質のところわからない。わからないということなんだけど、ちょっといろいろな観点から、考えていきたいと思うのが、このシリーズのもくろみです。

-2-
なぜ写真を撮るの、って聞かれて、答えられることに-好きだから-という答えがあります。好きなもんを撮る。現代では、これが基本だと思っています。もちろん頼まれて撮る写真ってのがあるわけです。プロカメラマンというのは、頼まれて撮るわけです。頼んだ人とか会社とかが、それでお金をくれる。でも、この人たちは、好きなもんを撮っておればいい、なんてことじゃない。そのうち日本では1970年代の後半ごろからだけど、好きなもんを撮って、売るということが出てきた。オリジナル・プリントといって、写真を美術作品と同じレベルで売買するシステムです。

ボクの好きなモノは、キミも好きなモノだとしよう。ボクが撮ったモノが、キミも好きで、だからキミが手元に置いておく・・・。もちろんお金を出して買うわけです。売ってるところはギャラリーです。ところがここに大きな落とし穴があるんです。写真が商品価値である、という落とし穴です。どうゆうことかとゆうと、好きでもないけど買ってもっておれば、値段が上がる。とか、お金で置いておくと、いろいろとヤバイから、金を買って置くようにして写真を買っておく。でも、このシステムはうまく動かなかった。

元に戻って、なぜ写真を撮るの、と問われて、撮るときの快感がいい!なんてゆうのもあります。たとえばカメラを持って撮影会にいく。撮影会ってのは企画してくれる処があるから、そこへお金を払っていくわけです。ヌード撮影会・・・いまだったら、アイドル撮影会、そしてもっとディープなモデル撮影会もある。こりゃ裸の女の人を見たい、撮りたいという欲望を刺激してる、商品を買う、ということです。撮影は生、実演、生舞台です。そりゃ~迫力あるですよね。

もう一度元に戻って、なぜ写真を撮るの、と問われて、好きだから、キミが好きだからキミの写真を撮りたい!ずばりそのことです。基本的には、好きなモノを撮るわけだから、このモノがキミなのだ!そうでしょ、写真を撮ってる時ってワクワクしなくちゃ撮れませんもんね!といいながら、写真を撮るときには冷静さが必要だ、と云います。被写体の、つまり撮るモノの、細部を見て撮れ!と云います。ワクワク、そわそわじゃ~写真が撮れない・・・。これがホントかウソか、まあ考えてみな!

-3-
写真を撮るなかに、好奇心という本性があるように思います。写真は、写真を撮る、という行動が伴います。自分が知りたいことについて、知ろうとする行為なのかも知れない。写真が、記録であるとか、アートであるとか、そうゆう論は、行為するための意匠であって、論を交わして写真を撮るとゆう衝動ではありません。写真を撮るという身体の行為は、知りたいとゆう好奇心がそうさせるんだと思います。

ヒトが生きていくには、エネルギーが必要です。エネルギー源は、第一に食料です。食べることです。もちろん住居をつくる必要があり、共同生活を営む必要があり、その中に食料の確保があります。そうして子孫を残すための行為があります。食べて寝てセクスする。これがヒトの生存のための条件なんだ。でもこれだけじゃ、動物行為です。ヒトがヒトたるためには、創造する行為があります。関係性の創造なんてことも考えますけど、目覚めた意識は、他を知りたい欲求を持ちます。

他を知りたい欲求は好奇心となって、わたしたちを欲望にかりたてます。このときにカメラがあるから、カメラを持って、知りたい、を満たそうとする。写真を撮る、という行為の底流には、このような欲求を満たす道具として写真がある。このように考えるわけです。

いまの時代は、お金を出してモノを得る選択の時代です。生活必需品から高価な装飾品まで、持ちえるお金で、何が得られるかを選択する時代です。この商品のなかに、写真を撮る道具、カメラがあるというわけです。好奇心を満たすために、新聞読んだりテレビを見たりします。これらは、好奇心を満たすための情報を受動的に得るわけです。で、写真を撮る、というのはむしろ能動的、みずから行動していく満たし方です。
2006.2.7 nakagawa shigeo

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
527_2743
2006年9月の実習風景

(016)写真テーマの現在

1 写真を学ぶキーワード
写真ってどんなものなんですか、
って問われて明快に答えって出てきますか?
真実を写すもんなんや、って言ったって
そんなこといったら余計に複雑極まりないですしね。

でも写真って不思議なものです。
考えれば考えるほどわからなくなってくるように思っています。
そこで写真ってのは器であってその中味は他の体系に依存する。
このように括ってみるとおぼろげながら見えてくるものがあります。

現代社会を論理付ける枠組みそのものを
具現化したものが中味ではないか?って思うんです。
そこで現代社会の話題となるキーワードをだしてみました。

1、生命、こころの科学的解明と非科学領域
2、自然、地球、宇宙の捉え方
3、人間の欲求、欲望、情動のありかと社会制度
4、政治、経済、芸術、宗教の再融合化

非常にアバウトなものですが、こんな区分を仮説してみて
それらについて自分が捉える位置というのを明確にしていくこと
そこからどのようにイメージ化していくのか、
っていうのがキーワードになるように思うんです。

いまの時代、そんなん理屈と違うよ、っていう風潮もありますが
そんな風潮の中でこそ問題を明らかにしていく必要があると思うんです。

写真を学ぶ写真学校の基本的スタンスをこのように求めています。

2 写真のテーマが向かうもの
写真のことについて考えていくとハードウエアとソフトウエアのことに二分されます。
ここではソフトウエア、写真のテーマについて少し考えたいんです。

写真のテーマが個人の内面を照射してそこから感情を交えたイメージをつくる。
こんな風な方向にきているような気がしています。

いまは、撮られた写真に大きな物語を感じさせるかどうかは置くとしてですね。
非常に個人的な体験を中心として写真が撮られてきているように見受けるんです。

個人の内面が置き去りにされている時代って言えばよいのでしょうか?
ふっと気がつけば私は孤独、なんてことありますよね。

特に最近の傾向として自分自身を考えるということがあるようです。
しかし自分自身を考えるなんていう枠組みが希薄な社会のようです。
そこで悩んでしまう人たちが多いと思うんです。

自分を告白したい衝動に駆られる!
ネット上の個人ホームページの匿名記事が告白に満ちていると思いませんか?
内なる衝動を匿名のままだったらさらけ出せる!

この自己表出の形式には次のようなものがあります。
日記体文学という形式をとったり写真・映像という形式をとったりです。

かってはノートに日記を書くという行為が詩作や小説につながっていったのですが、
いまの時代はパソコンツールで日記ホームページが簡単に作れてしまうので、
一定の形式を踏まないと出来なかった作品レベル以前の文章や写真が公表される。

こんな時代なんかな~って思っています。
そうだとしたら発表の場が一気に拡大しているわけですから、
ここでは写真。写真のテーマが個人のプライベートな露出に向かってきたことも理解できます。

こういうデジタルネットワークの時代の写真のテーマが「私」そのものであることは、
ハードウエア側面からの援護で一気に顕著になってきたようにも思います。

学校カリキュラムとして、この現象を精確にとらえていくことが必要だと考えています。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
IMG_9477
2013.4.21

(015)フィルム写真は残れるか?


デジタル写真の時代になって、コマーシャルやエディトリアルの仕事も、
デジタルカメラを使うようになってきてます。
写真を仕事にするにせよしないにせよ、デジタル化へまっしぐらに進んでる現状です。

こういう現状にもかかわらずフィルムで写真を制作する人たちもいます。
フィルムにはフィルムの魅力がある!
確かに現状では粒子、色調など印画紙を使う限りフィルムの方がよい。
でもこれもデジタル技術の進化でフィルムを淘汰していきますよね?
フィルム写真が今後も残るとすれば、
それはフィルムしかできない領域を確保していかなければいけないんです。

写真が美術(アート)の一角を占めるようになって久しいですが
工業製品としての銀塩やカラー処理工程での残存というより
フィルムを使ってより手作り化していく方向での残存を想定しています。

作品制作者(作家)は銀塩だけではなく非銀塩の写真世界も含めて、
その技法や材料を吟味していくことを考えていかなければいけないと考えています。
つまり手作りの、かってあった技法を掘り起こしていく作業が求められるのです。

それともう一方の技術ではなく「写真が扱うテーマ」の問題があります。
フィルムがフィルム固有の向かうテーマとは何か、
ということを導きだしていかないと意味がないです。

フィルムとデジタルというふたつの媒体をどう使うのかというのが、当面の課題になりそうですね。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.2.6
486_8611
里博文レクチャー 2006.7.4

(014)デジタル写真は写真の未来形

いまや写真を撮る道具といえば、デジタルカメラ、高級一眼レフデジタルから、携帯型デジタルまで、カメラといえば「デジタルカメラ」です。

一方で、トイカメラ、ピンホールカメラなど、フィルムを使うけれど、従来の高級一眼レフではなく、大衆カメラでもない、いわば古典回帰のようなカメラで写真を撮る。

とはいえ、いまや主流は、デジタルですね。
デジタル写真は、未来形というより現在形です。
2008.2.6 nakagawa shigeo

デジタル写真の時代

写真って映像文化の原点だと思うのですが、
いま、フィルム時代からデジタル時代に移っています。

写真のデジタル領域では、デジタルカメラとパソコンとインターネットがあります。
明らかにこれまでの写真の社会的存在の形式が変わったと認定できると思います。
写真に撮られる内容は置くとしても、処理方法と発表形態が一変してるんです。

このような場所からみるとネット上で多くの写真が発表されています。
カメラメーカーはそれぞれに個人が写真アルバムをもてるようにしています。
個人がそれぞれにホームページをもつことが当たり前になりましたし
そこには自分で撮った写真が多く掲載されています。

これまでのフィルムベースの写真の制作プロセスと発表形態がよいのか
それともデジタル領域での制作プロセスと発表形態がよいのか
文化の過渡期にあってあたらしいデジタル領域は
従前のフィルム写真の方に回帰しようとしているようにも見受けられるます。

これは価値の軸をどこに置くのかということなんですが、
わたしたちの写真経験160年余はフィルムベースだったから
その領域で培われたノウハウに価値軸を見ているんですね、きっとね。

デジタル写真にはデジタル写真固有の場があるはずです。
その場所を作り出していくことが新しい写真学校には求められていると思います。

写真の内容が求めていくテーマにおいても
デジタル時代だからこそのテーマが導かれてくるものと思います。

写真がギャラリーやミュージアムの壁面を飾っていた形態から
バーチャル空間へ解き放たれていくとき
そこに新たなコミュニケーションの形が生成してくるものと思います。
この新たなコミュニケーションの形にこそ注視していくことが大切だと思います。

写真学校フォトハウス京都の求めるカリキュラムはこのあたりにありそうです。

デジタルカメラ

写真好き好きの知り合いと話していて、当然のようにデジカメ買った話になりました。
一眼レフデジタルカメラで700万画素のをやっと買った(けっこう高価)っていってました。

それからハードウエアーのはなしが、つまりデジカメの性能についての講釈があって
フィルムカメラとデジタルカメラの比較検討(あくまでカメラの話)の講釈があって
まあね、最新機材をもったことの自慢話ってわけです(笑)
そういえば私のデジカメはキャノンの500万画素、昨年10月に購入しました。
けっこう使い勝手いいです、小型だし、素人さんのように見てもらえるしいいですね^o^

こういう話ってけっこう主流なんですよね消費者業界ではね
でもちょっと違うんじゃない?って申したいわけ
それは道具のはなしであって何をつくるの?ってことに話がおよばないとね、って思うんです。
それは料理人が包丁の話をするのとおなじだよ
絵描きさんが筆と絵の具の話吟味するのとおなじだよ
そういう話題も当然必要だけど肝心なのは中味の問題でしょ?

形骸化してるな~肝心なのは中味をどうするのか、ってことですよね
この中味をどうする?ってことを話したいんです。
「写真ワークショップ」っていうのは、この中味をどうする?ってことを話する場なんです。
そのように組み立てていくんです。

ハードウエアー・デジタルカメラの使いこなしは当然だけど
それだけじゃないいんですよ、というところから始めないといけないみたいですね。
これは入り口です。

デジタル写真のはなし

デジタル写真が主流になってきました。もうフィルムの時代は終わった、って感じです。
どこの家庭にもカメラがあって、子供の成長記録とかペットの写真とかを撮って、
そのフィルムを写真屋さんに外注していた時代から、手元のPCに取り込んで処理できる時代になってきました。

そのうちの何人かは写真を自己表現の手段として使いたい欲求が芽生えてきます。
そこで待ち受けているのが商売やさん、カメラと写真産業はおおきなマーケットです。
ひところはビデオに移行していた消費者がデジタルカメラを使いはじめました。

もう家電製品ですね。
そこでカメラの形が高級イメージのある一眼レフ型に移行し始めているようですね。
価格もけっこう高くなっていきます。
消費者としても高級カメラを持つと自分も高級写真が撮れるような思いが出てきます。

そんなんじゃないんよな~ってところからの出発。
写真って何ナノかな~
ふっとそんな思いが立ち上ってきたときに商業の枠ではなしに
写真というものを考え捉えていくフレームが必要なのですね。

そのことを基本軸において写真を考え学ぶ場所「学校」が必要なわけです。

デジタル時代の写真

写真の学校をつくる計画の中でなにが中心かといいますと、
デジタル時代の写真表現とはどういうものだろうか、ということです。
写真術が発明されたのが1839年です。
それから160年余りが経つなかで
映画が生み出され、テレビが生み出されてきました。

いまデジタル時代に写真が一番古いメディアとなった感がありますが
これはフィルムの時代における捉え方だと思っています。
静止画像としてのデジタル写真は、おそらくフィルムとは違うものです。
その違うものだ、ということを軸に考えをめぐらせていくこと。
これが必要な視点ではないかと思うのです。

写真が発明当初の英国でタルボットという人が
「自然の鉛筆」という写真集を編みます。
そこには写真の効用というか利用方法が書き述べられています。

いまあらためてそのことを思うと、フィルムとデジタルは似て非なるのも、
そういう論の立て方もあるのではないかと思われるのです。

新しい表現の方法がどんなものかの想定はこれからの作業です。
ネット上では「あい写真学校」を、
実地では「写真学校・写真ワークショップ京都」を、
その相互共通カリキュラムをこれから組み立てていきたいと思っています。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.16~2008.7.1
IMG_5999
サイアノタイププリント実習 2009.5.31

(013)アナログ写真とデジタル写真
2009年7月です。
今年、京都写真学校へ入学されてきた人は、全員がデジタルカメラ使用者です。
写真の世界は、どんどんとデジタルカメラ&フォトの時代になっています。
そうして、フィルムなどを使う写真の制作が、過去の手法になってしまう感があります。

京都写真学校では、今年2009年度では、サイアノタイププリント、ブロムオイルプリント、など、過去に制作された技法・手法の実習を行います。

フィルムを使った制作方法を含め、過去の手法を総合的に研究して、アナログ写真を考えます。
アナログ写真を過去のものとしてとらえるのではなくて、作品制作方法のひとつとしてとらえます。

最初に

この初稿を書いたときが2004年ですから、もう4年前になりますが、そのころには、まだフィルムを使って写真をつくることが多かった。
(商用には、すでにほとんどデジタル処理に移行していました)

その後、フィルムカメラの生産中止や、デジタル環境の変化などで、カメラといえばデジタルカメラであり、フィルム処理は、もう過去のものとなってしまった感があります。

この原稿をお読みになるみなさんは、どうでしょうか?
まだ写真をするならフィルムだ、なんて古い考えにとらわれていませんか。

2008年のいまや、もうデジタルカメラとデジタル写真が先にありきで、フィルムを使うのはその目的を持ってから、ということではないでしょうか。
2008.2.6 nakagawa sense

1 フィルム写真は残れるか

デジタル写真の時代になって、コマーシャルやエディトリアルの仕事も、
デジタルカメラを使うようになってきてます。
写真を仕事にするにせよしないにせよ、デジタル化へまっしぐらに進んでる現状です。

こういう現状にもかかわらずフィルムで写真を制作する人たちもいます。
フィルムにはフィルムの魅力がある!
確かに現状では粒子、色調など印画紙を使う限りフィルムの方がよい。
でもこれもデジタル技術の進化でフィルムを淘汰していきますよね?
フィルム写真が今後も残るとすれば、
それはフィルムしかできない領域を確保していかなければいけないんです。

写真が美術(アート)の一角を占めるようになって久しいですが
工業製品としての銀塩やカラー処理工程での残存というより
フィルムを使ってより手作り化していく方向での残存を想定しています。

作品制作者(作家)は銀塩だけではなく非銀塩の写真世界も含めて、
その技法や材料を吟味していくことを考えていかなければいけないと考えています。
つまり手作りの、かってあった技法を掘り起こしていく作業が求められるのです。

それともう一方の技術ではなく「写真が扱うテーマ」の問題があります。
フィルムがフィルム固有の向かうテーマとは何か、
ということを導きだしていかないと意味がないです。

フィルムとデジタルというふたつの媒体をどう使うのかというのが
当面の課題になりそうですね。

2 デジタル写真の時代

写真って映像文化の原点の形だと思うのですが
いま、フィルム時代からデジタル時代に移ってきています。

写真のデジタル領域では、デジタルカメラとパソコンとインターネットがあります。
明らかにこれまでの写真の社会的存在の形式が変わったと認定できると思います。
写真に撮られる内容は置くとしても、処理方法と発表形態が一変してるんです。

このような場所からみるとネット上で多くの写真が発表されています。
カメラメーカーはそれぞれに個人が写真アルバムをもてるようにしています。
個人がそれぞれにホームページをもつことが当たり前になりましたし
そこには自分で撮った写真が多く掲載されています。

これまでのフィルムベースの写真の制作プロセスと発表形態がよいのか
それともデジタル領域での制作プロセスと発表形態がよいのか
文化の過渡期にあってあたらしいデジタル領域は
従前のフィルム写真の方に回帰しようとしているようにも見受けられるます。

これは価値の軸をどこに置くのかということなんですが、
わたしたちの写真経験160年余はフィルムベースだったから
その領域で培われたノウハウに価値軸を見ているんですね、きっとね。

デジタル写真にはデジタル写真固有の場があるはずです。
その場所を作り出していくことが新しい写真学校には求められていると思います。

写真の内容が求めていくテーマにおいても
デジタル時代だからこそのテーマが導かれてくるものと思います。

写真がギャラリーやミュージアムの壁面を飾っていた形態から
バーチャル空間へ解き放たれていくとき
そこに新たなコミュニケーションの形が生成してくるものと思います。
この新たなコミュニケーションの形にこそ注視していくことが大切だと思います。

写真学校フォトハウス京都の求めるカリキュラムはこのあたりにありそうです。


京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakahgawa shigeo 2004.6.19~2008.2.6
IMG_8073
第三期暗室実習風景 2008.1.27

(012)ワークショップの世界
あい写真学校と写真ワークショップ京都では「ワークショップ」という言葉が頻繁にでてきます。
よく聞く呼び名だけど、いまいち意味がつかめない、と思っているかもしれないですね。
この学校での「ワークショップ」とはどんな手法なのかということをお話しておきたいと思います。

1、ワークショップは教え教えられる共同制作の場です。

学校に参加されたみなさんはそれぞれに独立した存在です。若い人もいれば年配の人もいらっしゃる、そんな集団なんですね。
ふつう学校っていうと先生がいて生徒は教えてもらう、一方的な知識の伝授なんですが、ワークショップというのは、その場にいる人が共同で創り上げていくことなんです。
ワークショップに参加している人はさまざまです。たまたまその場のテーマにおいては生徒だけれど、別の場所では先生的立場の人であるかも知れないし、その他にも様々な専門的なことを研究したり知識が豊富であったりするわけです。
この場合、対等なんですね、等価といえばいいのでしょうか。ワークショップの場は役割分担といったほうがいいかも知れませんね。

こうなると先生、生徒っていう呼び名はふさわしくないですよね。そこでワークショップでは原則全て○○さん、さん付けで呼びます。

それはいいけど、まだ専門分野といえるほどに知識もなにも持っていないひとはどうしたらいいんですか?
若い学生の人とかですよね。心配ご無用です。知識の多さだけが必要なわけではないからです。
その場を構成するためには、アイデアとか感覚とかが重要なんです。
多くの知識を持っているひとが、発想豊かなひとのアイデアを組み合わせることで、具体的なものになっていくってことがあります。それから時代感覚なんていう感性のところもあります。
若いから敏感だとはいえないかも知れませんが、経験に支えられた感覚とは違った、新しい感覚を織り込んだものが出てくる可能性っておおいにあるわけです。

このように共同で何かを創り上げていく作業が「ワークショップ」の世界だと思っていただいたらよろしいですね。


京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫

☆☆写真学講義☆☆
nakagawa shigeo 2004.6.11~2008.2.6
487_8715
(011)技の海・知の森、その間のあなたの心身
写真を撮って作品と呼べるような代物に仕上げていくのに何が必要なんでしょうね。
つまり写真を構成する要素とは何か、っていうことですね。

写真ってカメラを使いますよね。いろんな種類のカメラがありますが、カメラの機能は外の光を取り込んでフィルムまたはデジタルデータとして保存するということなのです。これが基本条件です。

写真のことを、外の光を取り込むことで絵を描く、自然の鉛筆ってタルボットは名づけましたが、光の芸術って言い方も出来るかと思います。

写真を撮るといったとき、この光をどのように定着させるかということが大きな課題でした。
その後、カメラ装置が改良されて今あるカメラの姿になっているんですが、でもカメラに取り入れる光の量をどうコントロールするのか、ということが出来栄えにおおきく影響するんです。

ですから写真で作品を創るときには光の量をコントロールする技術が必要になってきます。
写真を作るのに必要な素材はフィルムまたはデジタルデータのメモリーです。カメラの装置には、絞り値とシャッタースピードがあります。

フィルム感度と絞り値とシャッタースピードの三つを組み合わせて、いちばん素敵な状態を作り出すことが重要なんです。これは経験を積むことで微妙に細部をコントロールできるようになります。それとあなたの感性、いちばん素敵な状態だと判断してあげる感性が必要になります。

でもでもでも、でもなんです。技術力が抜群向上したからって作品が出来たとはいえないんです。
その写っている中味のことが重要になってくるんです。
珍しい、非常に珍しい物や現象が写ってる、というのは一つの価値を構成します。
それと自分の考え方を反映させる写真というのも一つの価値を構成します。
わたしたちはよく、「○○を観る目」という表現をしますが、この何かを観る目っていうのが大切なことなんです。

世の中の一人として生活していると食べたり見たりする「物」だけではなくて、食べ物や物質に様々な意味をつけて価値化していくんですけれど、その意味と価値をどのように写真に写しこむのかということが、やっぱり必要なことなんです。これをコンセプト(考え方とでも訳しましょうか)っていってますね。

つまりあなたの身体の作業として、技を磨くことと考え方を出すことの必要があるわけです。
考え方をだすことは頭脳プレーです。このように見ると写真は心身作業です。
こころとからだが一体となって写真が創られるのです。

こころには感情があります。論理を組み立てるだけではありませんよね。たいていは感情なんです。
情動っていいますけど、快不快、きもちいい!きもちわるい!っていう感情なんです。
写真を見ていてこの情動をどう発生させるか、というのが今では基本中の基本だと思います。

情動だけで見れる写真っていうのもあるかと思いますが、これは鑑賞者の立場であってですね、作家はやっぱり、技術と知的分析と情動に訴えるという三点セットを使いこなすことが必要なんじゃないですかね~~。



京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.1.25
341_4181
(010)写真を教えてあげる・写真をあげる

なんでもそうなんですが、なにか全てお金しだいってことが、
今の世の中ありますよね。
金さえあればこの世では~~、なんていうのは満更ウソではないですね、
お金があれば、なんでも出来ちゃうですね。

お金をだせば写真の専門学校や芸術系大学で写真のお勉強ができます。
そりゃタダでは教えてくれません。

このお金が動いてそこに教え教えられることが出来る関係っていうのを、
ぼくも居たけど、教育産業っていうんだそうです。

確かに設備が必要だし、建物も必要だし、教えてくれるひとの生活費が必要だし、
って考えていくとお金の要ることばっかりです。
経済活動の一端を担っているんですから、
どうしようもないシステムなんですよね。

でも、この経済活動を成立させないところで、
写真を教えたり写真をあげたり出来ないだろうか?
っていうのがそもそもの根底にあるんです。

教育がなんのために施されるのか、っていうと生産を上げるためなんですね。
社会に出て行くという言い方しますが、
教育を受けて仕事に就くわけです。
そうしてこの世の中の仕組みに参入していくのですね。
ここで、いろいろと問題がでてくるんです。

まず世の中の流れの中でですが、容認できないことが沢山あります。
出世という考え方があります。
何をもって出世したと認定するかといえば、
会社で仕事するときには社長以下部長だとか課長だとか・・・・
俗に上下の関係ってあるんです。

その上の方に就いていくことが出世。
大きな会社、小さな会社あるけど、俗に大きな会社の方が上、
人間の欲望って上昇志向ですね。

競争心ってのも必要ですね。
戦争があります。
絶対嫌や~~っていっても無くなってないですね。
兵器作ってる会社って戦争が起こったら儲かる仕組みなんでしょ?
こんなんずる~い、っていってみても、
そういう仕組みだからどうしようもないんですよね、個人的にはね。

そういう価値の軸の上ではない、
といいながら、そうではない価値の軸ってないんでしょうかね。
その価値軸に、せめて反抗する程度のことしかできないのかも知れませんが、
もう一つ別の価値軸を作ろうと思っているんです。

この「あい写真学校&写真ワークショップ京都」、
いずれも経費ゼロにはならないですが、低く抑えています。
自分が生産したもので学費の代わりにする物納でもよいことにしています。

地域通貨っていうシステムが試みられ始めていますね。
そのシステムに基本的に同感するんです。
その実践としての試みが「京都写真学校」の学費納入のシステムなんです。

教えてあげる労力っていうのを貨幣価値判断から除外する、
あるいは排除するってことの試みなんです。
だからお金が全てに優先する!なんて考えの人はなじまないですね。
そういう人は沢山お金を支払って卒業証書ってのをもらったらいいんです。
そ~ゆう価値観じゃないところで、
ものを考えたり作ったりする仕組みを創りたいと思っているんです。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagawa shigeo 2004.6.7~2008.1.25
337_3709
(009)写真学の新しい理論つくり

写真のはなし-01-
このサイトの名称が「あい写真学校・・」って言ってるのに
写真の話がちっともなかったんで、
きょうは「写真のはなし」ってタイトルをつけてみました。

ここで「あい写真学校」ってあるのは、
何か自分の内側にあるものを、写真で表現していきたいと思っているひとが、
通信で通学で学べる学校を想定しているんです。

写真を撮ってるひとって多いですね。
もう生活必需品なんですね。
でも、写真を撮っていて技術的に上達していくのはいいんですが、
なかにはもうちょっと上手になりたい、
写真ってなんなんだろうな~なんて疑問を抱きだしたりして、
そういえば写真学校ってのがあるな~
いっちょそこで勉強すっか!なんて思いだしてくるんですね。

そういうひとのために創ったのがこの学校
通信でやるのでどこにいても学べる
写真って義務教育の中で習わないから訳がわからない
雑誌や広告の大部分は写真で埋め尽くされてるのに
その解釈ができない・・・
そんな現状をみて写真学校へ習いにいっても
撮り方の技術ばっかりです。

そうではなくて自分が生きている実感としての表現をしてみたい!
そこには、なぜ写真を撮るのか、という自分のことをとらえる視点も必要なんです。
そういうことに気づいたひとが学べる学校、
そんな学校が私自身がほしかったんです。
だから、学校をつくりだしたんです(笑)
まあ、ためしに一回のぞいてみてください。
見たり読んだりはタダですからね!!(笑)


では、またお会いしましょう。

写真のはなし-02-
どうしてそんなに写真にこだわるの?
写真って光が描き出す絵ですね。
自然の鉛筆って写真発明者タルボットはいいましたけど

この光の描き出す絵ということにこだわってるんです。

文化研究という枠で世の中のことを見ようとしてるのですが、
いまの文化状況って映像イメージ氾濫時代じゃないですか。
写真っていうのは静止画だし音も台詞もはいらないものです。
イメージの原点だと思うんです。


それと文化の生成プロセスということにも興味があるんです。
いまだったらアテネオリンピックの話題ですね。
TVの画像と音声は写真からの発展形だと思うんですが
スペクタクル化するイベントを映像で作りあげていく
その背後には商業資本が商品化していくプロセスがみれるでしょ
こういうことは社会の流れだから賛成とか反対とかいう筋合いではないですが
人間の本来的姿(充実感と幸福感)をみることができるかどうかなんです。


世の中がグローバル化し個人が均一化していくのがこの先に見れるとしたら
未来が人間をロボット化していく過程にあるとしたら
いまいちど原点回帰が必要ではないのかな~と思うんです。


写真って撮って楽しんだらいいものなんですが
そして射幸心を刺激してくれるんだから娯楽として楽しんだらいいんですが
それだけじゃあないやろ~~っていう思いもあるんです。


写真学校「写真ワークショップ京都」の企画を立ててるなかでの思いです。

写真のはなし-03-
写真をとらえていくということは、
自分の生き方をとらえていくということにつながると思います。
そして自分という個人を超えていく手段として、
把握されていかなければならないのではないかと思います。


初期の写真技術のひとつが1839年に公表されてされてから、
160年余りが経ちました。
現在、これまであった写真をめぐる技術と思想の範囲では、
これから来たりくる「写真」という枠組みが、
捉えられない状況にあるのではないかと思っています。


私にはこれからの写真ってどんなのになっていくのだろうか、
というのが主要なテーマとしてあります。


また、写真表現というものは、
「ひと」が個的にかかわりながら制作していくものですから、
その創造のプロセスを明確にしていければな、とも思っています。

これはひとの内側の深~いところに疼いている欲望のありかを、
意識の上に浮上させる試みでもあると思います。


カメラと写真をとりまく様々な技術のことや、
社会とのかかわりを求める表現の歴史的な観察や、
人間の社会や文化を構成する手段としての写真の姿、
というようなことを念頭において、
これからの生き方の方向とその方法を探っていければいいな、と思っています。


人間共同体の関心ごとが年月の経過とともに変容してきて、
現在その関心ごとの広がりは「見えるものと見えないもの」のなかで、
見える宇宙見えない宇宙、見える地球環境見えない地球環境、
見える社会現象見えない社会現象、見える自分見えない自分・・・・・。
さまざまな見えるものと見えないものの狭間で、
ぼくたちは生存しているのです。


写真はいつも、見えるものを捉えることで、
見えないものを見せようとしてきたように思います。
写真という手段は、目に見えるものしか捉えられない、という宿命を知りながら、
この見えないものにアプローチすることが、
それぞれの時の現代的なテーマでもありました。


これは現在もやはり主要テーマであり続けるようです。
そこで、大切なことはぼくたちが写真というメディアを使って、
何をするのかということです。

現在時点で科学技術が明確にしている事柄を取り入れながら、
その背景を創り成す思想というイメージ世界をふまえて、
それぞれの生き方、生存のあり方、
そして「ひと」と「ひと」との関係のあり方を、
模索していくこと、とでも言うことでしょうか。


これからの写真を使っての表現方法の基底には、
生命というものの根源を考えイメージしていく姿勢と、視点をもって、
こころ(精神とか内面といわれるもの)の安定、欲望の実現をめざすことがあります。


これは、「こころ」の深い処で、
現実表層を造っている世界というものを深い構造として捉え、
情動のレベルで新たなる安定や喜びを見いだしていくことではないかと思います。


写真を表現手段として手に入れるということは、
自分のいる場所を探しに出かけていくこと、
そしてその場所を確認していく作業でもあるのではないでしょうか。


これらのことを言葉でいうのは、ある程度簡単なんです。
それを具体的な作品にしていくことがじつは大変なことなんです。
でも、その大変だ!ということも十分に知ったうえで、やっていくしかないですからね。


まあね。わかる、感じる、ところからはじめていきましょう。

京都写真学校カリキュラム
執筆:中川繁夫
nakagaw shigeo 2004.6.7~2008.1.25
310_1025
(008)写真を越えて新たなアート分野へ

写真は記録であるという考え方で、
これまでの写真が撮られてきた歴史があります。
ドキュメンタリーという考え方です。

戦争の現場や公害発生の現場で、また都市の中で、農村の中で、
さまざまな場所でたくさんの写真が撮られてきました。

その一方で写真はいつも美術と密着しながら、
美術(特に絵画)とは別の考え方で、
レンズの特性を生かしたり細密描写をしたりしてきました。

それらはいつもカメラという道具を使って、
現実を切りとる方法として定着してきました。

ところで20世紀の後半になると、
美術家と呼ばれるひとたちが、
作品つくりの道具としてカメラを使い始めました。
写真装置を、それまであった枠を越えて使い出したのでした。

これには一枚の紙の上に写しこまれる写真としての、
形式は変わらないけれども、
その考え方が美術の潮流の中にあるというもの、
また写真そのものを加工して作品としたもの、
紙の上ではなく立体面に写真技法を使ったもの、
などいろいろと工夫がなされてきました。

そして今や、写真という概念は非常に変形してきたように思います。
現代美術という分野が、かってあった美術セオリーを覆してきたように、
写真においても、かってあった写真セオリーを覆してきて、
今やもうセオリーが崩壊してしまった観があります。

これはなにも美術や写真の中にだけ起こっている現象ではなく、
人間をとらえる視点、これまであった哲学的視点、
近代科学の枠組み、国際政治世界の枠組みの変更など、
かってなかった程に変化しています。

写真は、これまでの写真の枠組みを越えて、
新たなアート分野に入ってきています。

新たなアート分野とは
、高尚だとか低俗だとかの判断基準ではないところで創造されるもの。
新たな、しかしかってあった類似形の、人間関係を結ぶ手段としての道具。
こういう場所に来たんだと思います。

特にいま、生命という言葉をキーワードとして、
ここに近代の合理主義や機能主義の考え方が封印してきた、
人間や動物や植物たちの精をよみがえらせるための方法が
模索されていますが、
写真にあってもその例外ではないと思います。
写真は生命活動であり、生命活動はアートすることであると思います。

-ポイント-

◎現在は「生命」というキーワードのなかで、こころ・自然・欲望がテーマです。

◎写真は生命活動であり生命活動はアートすることです。

◎食べることが身体維持の基本的営みとすると、
アートすることが精神維持の基本的営みです。

この食べることとアートすること、
二つの基本的営みが一体のものとしてとらえていく視点が、
これからは求められていくのだと思っています。

このページのトップヘ