現代表現研究

現代表現研究所のブログです。

2018年11月

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と社会
nakagawa shigeo 2004
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写真と社会

写真がこれまで存立してきた165年(1839年発明)のあいだ、
いつも話題となってきたのが「写真の社会的存在」というテーマです。

ここでいう「社会」とは何をさすかというと「人間を中心とした人間関係の全て」です。
とくに、ドキュメントまたはドキュメンタリーって言われている
写真の手法に限定して写真と社会との関係をみてみるとですね、
(ここでは総論ですから、ことの細部はいまは入れません。)

20世紀社会の大きな出来事っていうと、
第一次、第二次世界大戦の出来事が20世紀の前半です。
米ソ冷戦構造を受けた国際社会構造から起こる出来事が20世紀後半です。
それから20世紀の終わり近く1989年のベルリンの壁崩壊以後の国際社会の出来事。
これがいま2004年6月末日の今日の大きな出来事の結果の枠組みですね。

ここでね、現在の大きな出来事を伝えるメディアというのはTV映像ですよね。

でもね、まだTVが主流でなかったころの1950年代から60年代までの映像イメージは主に写真でした。
アメリカではグラフ雑誌(LIFEが有名)には写真がいっぱい掲載されていて、
社会に大きく世論形成を仕掛けていたんです。

そうしたら60年代以降、現在まで、写真の役割はなくなったのかというと、
決してそうではないと思っています。
ただ、即物的な現場報告はもうTV映像になりましたね、というのがホンネです。

この国が高度成長を始める1960年代以降ですね、
どういうことが起こるかというと商業ベースでいうと、
ファッション雑誌の盛隆とか旅行ブームとかですね、
お金が多様に社会の中にまわり出す背景に、
写真の役割がけっこう多くあったんだと思っています。

社会が人間の欲望を刺激してきて、人々は現在と未来に夢をいだいてきます。
衣服を買ったり、旅行したり、いやはや日常生活に必要な食べ物の購入において・・・
豊かな生活を満喫させてくれるように思ってしまうその背景に写真があった。

そうなんですよ、雑誌には写真がいっぱい詰まっていて、その写真を見て、
わたしたちは消費する気持を刺激されて、その写真のイメージに引き込まれていきます。

ちょっと、こんな経験ありませんか?
旅行に行って観てみたい場所とかっていうのは、写真で観た場所、だってこと。
それに旅行先で見た光景が、あ、写真に写ってた場所や!!っていう感動です。

こんなふうに社会での写真の役割って内容こそ、
その時代によって変化してきていますが、
社会の合意というかコンセンサスというか支持っていうか、
言い方いろいろあると思いますが、
世論を作っていくのに大きな役割を果たしているんですね。

今日は、写真というものが社会的存在である、ということについてのお話でした。
写真を撮る人と社会との関係ということは、全くオミットしています。
あしからずご了承ください(笑)
そのうち、そのうち、作家と社会なんてことにも及んでいきますからね^o^:

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と文章
nakagawa shigeo 2004
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写真と文章

写真を語るのにわたしは言語、言葉、文章を使っています。
まさにいま、ここでやってることが、そのことなんです。

今日は「写真と文章」とタイトルしましたが、
「写真と言語」でもいいし「イメージと言説」でもいいんですよ。
「写真と文学」としてもいいわけなんですが、ここでは写真と文章です。
写真は「イメージ言語」なんていう言い方もされているんですけれどね。

ここでは写真の見方、捉え方という写真を語る語り口ではなくて、
写真というイメージと言語というものの関係を簡単に枠つけます。

写真に写った「愛犬」はそのものずばり「愛犬」なるものの姿が写真としてあります。
これを言葉で「愛犬」を伝えようとすると、なかなか大変ですね。
相手が私の愛犬を知っていてくれればイメージできますからことは簡単ですが、
そうでない場合っていうのは、いっぱい修飾語をつけて説明しなければいけないし、
そうしても実在の愛犬または写真に写った愛犬を語りつくすことって困難です。

これ、あたりまえのことなんですが、写真と文章の決定的な違いなんです。

言語や文の分析でメッセージとかコードという言葉を使いますが、
写真の場合「コードのないメッセージ」なんてバルトって言う人はいいました。
写真って直接性なんですね、
なによりも現物が本物ではないですが、その現物の形で確認できる。
そういう代物なんです、写真っていうのはね。

文章っていうのは、読んで(読ませて)イメージ化する代物ですね。
現物を目の前において会話するのなら、写真を前において会話する、と同じ構図ですが、
現物のないところで文章を読むときって、これはイメージをつくる空想領域でやりとりする。

写真に先行する言語、というのが現状の認識かな、と思っています。
コミュニケーションのなかに言語作用があって、
そのうえに写真でのコミュニケーションが成立する。

でもね、言語優先から、写真含む映像が言語と並列になるだけでなく、
映像だけでこころを繋ぐコミュニケーションが成立する・・・・

未来に向けてはその方向なんですね。
わたしはデジタル写真の将来的展開としてこの可能性を大きく開いたと、
このように仮説しているんです。
デジタル写真とデジタルネットワーク環境ですね、
これらハード環境が融合していくことで、中味(コンテンツ)が発信されていく、
そこにヴァーチャルではありますがコミュニケーションが成立する。

文学作品が読むことでイメージを醸成させて感動を起きさせるように、
写真がヴァーチャルネットワーク環境のなかで人のこころに感動を起こさせる。
そのような可能性を仮説しています。

わかったようなわからないようなお話ですがね(笑)

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と絵画
nakagawa shigeo 2004
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写真と絵画

写真のかたちが絵画と酷似しているがゆえ、写真と絵画の関係をさぐる話は多くあります。
写真の発明以後、形式が平面であるがゆえ、写真は絵画と比較して語られてきました。

写真を絵画の下絵として(スケッチの換わり)の目的で撮っていたアジェ(20C前期)
写真を絵画に近づけようとして模索したピクトリアリズム(19C後期)
それから1世紀以上の時間経過があったいま、
あらためて写真と絵画の類似性ゆえ、絵画の追随をしている傾向もあります。

光が勝手に描いてくれる絵画としての写真
花の季節に神社仏閣を詣でるとそこにカメラを携えた人が多くいます。
そのそばに画布をしつらえて絵を描いている人が多くいます。

カメラの時間と絵画の時間を考えてみると
カメラは多くて1秒、絵画は・・・時間、という差
カメラは軽い絵画装置なんかな~なんて思ってしまいます。

もちろん写真が成してきた役割はもっと多くの系をつくっています。
ドキュメント、報道、瞬間記録、等々さまざまな分野で有効かつ必要に使われています。
また芸術?作品としても多くの潮流をつくってきました。

でも一方で写真を社会的有用性の観点から見るだけでなくて、
人間の創造物としての写真作品のあり方を見るとき、
ステーグリッツ以後、そこに独自の制作方法が導かれてきたことがあります。
人間の内面を描き出す装置としての写真(カメラワーク)です。

デジタル処理の時代に入った写真!
フィルム160年余の年月を経過していま、
あたらしい時代に入っています。

160年余前には、絵画のような「光が描く絵画」として登場した写真でした。
いまフィルム写真のような「デジタルをベースにした写真」が登場したデジタル写真です。

さてさてどうなんでしょうね、単にメモリの形式が変わっただけ?なのか、
それとも全く新しい領域だけどフィルム写真と併走している時期?なのか。
このあたりの考証考察がいま必要とされていることなのかも知れないですね。

写真を考える上で解くべく問題を提起しておきますね。

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真と映像
nakagawa shigeo 2004
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写真と映像

写真の発明が1839年ですね。
それから半世紀のちの19世紀末に映画が作られる。
そこから写真術の発展系として映画が誕生してきます。
ここで「写真」は静止画で、「映画」は静止画の連続したもの(動画)として捉えます。
静止画と動画という区分でいいですね。
このことが基本です。

人間の欲望という側面から観ると、
静止画より動画のほうが動く現実に即していますから、
動画のほうにリアリティを感じるようになりますね。
古いメディアがが新しいメディアに淘汰される。
とは言いながらも静止画である写真が存続しています。

写真も映像(ビデオ映像含む)も並立しています。
社会の商業システムでは、印刷媒体と電波媒体のふたつの系がありますから、
並立は当然といえば当然なんですが・・・

個人ユースとしての写真と映像という観点から見てみます。
どちらも工業製品としてのカメラとメモリ(フィルム含む)を使います。
個人の利用の仕方については産業体からの供給によって選択する。
そこに写真カメラとビデオカメラが並立してあります。
いまなお写真カメラが衰退しない状況です。

単に経済システムの生産と消費という図式のなかでの解析だけでは測れない、
写真需要の秘密が「写真」というものにあるのだろうと思います。
このことを解き明かしていくことが必要だと思っています。

システムとしての美術館や映画館やお茶の間TVスタジオのあり方だけではないもの。
人間の欲望の根源を探り出す方向での解析が求められてきていると思っています。
この「人間の欲望」という観点からの認識が「写真」に求められるとき、
写真の学習はようやく社会性をもつことになりますね。
つまり写真のことを考えるのには、
写真以外のことを知って写真に照射しなおすという視点です。

もちろんこれは映像をテーマに考えるときの視点でもありますけれどね。


☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真を展示する場所
nakagawa shigeo 2004
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写真を展示する場所

デジタルカメラの時代になって、ネットワークも整備されてきて、ホームページやブログ、それに写真アルバムがネットワーク上で簡単に作れるようになっています。写真を展示する場所は、かってはギャラリー壁面でしかできなかったのですが、いまやネット上にて展示するのがメインになったといえます。

かって自分の写真を展示するには、一定の水準を要求するメーカーギャラリーとか、お金をだせば展示できる貸しギャラリーとか、経費がかかりました。ところがデジタル写真の制作、ネットワーク上での展示には、ほとんどコストがかかりません。これは革命的状況だと思います。

明確にデジタル写真時代になって、環境が大きく変わったと認識します。およそ100年前、ハンディカメラが発売されて、スナップショット手法が主流となりました。いまや携帯電話のカメラ機能で、誰もが常時手許にカメラを持っている時代です。携帯電話からそのままブログに写真をアップできることが出来ます。写真制作と写真展示の場所が、ここにきて大きく転換しているのです。

2007.6.22 nakagawa shigeo


写真が紙(印画紙)の上に定着された擬似イメージだということで壁面に飾られる。
ギャラリーやミュージアムの壁面に展示される。
これが一般的な写真の展示方法でした。
いまの時期、あえて過去形で書くしかない現状なのかも知れないですね。

デジタル写真の時代だからネットワーク上で発表するというのも手だと思います。
とはいえ写真を撮る人が発表する場として、まだまだギャラリー優先ですね。
具体的な数値を基に分析してるわけではなく雑感ですけどね。

といいながらもホームページにも作品いっぱい発表されています。
たしかにギャラリーでの展示というとそれなりにセレクトしますから、
それなりに見栄えする写真となっているようです。
ホームページに発表される写真は家庭のアルバム帖といったところかも知れません。

善し悪しべつにして、いまはこのふたつの展示する場所があることの確認です。
美術館を頂点とする場というのは作品収納の場として歴史がありますし、
それだけで価値を構成する仕組みを創っているんですが、
この価値の突き崩しっていうのがまもなく現れてくるのではないか、という予感がします。

つまり写真の価値という意味の見直しですね。
大きくは1960年代に立ち現れた価値軸変更の時代のように・・・
いまあらためて写真の価値軸変動の時代に入ったという感じです。

この現象は写真に限ったことではないですね。
1968年問題という言い方でわたしは見ておりますが、
社会制度のありかた論が活発になってきている背景をもって、
当然、写真のありかた論に及んでしかるべき時期がきている。

ちょうど新しい展示場所としてのデジタルネットワークが写真において意識されるように、
写真を撮る人と撮られる対象の位置関係もわたしの内部に向かうことがいっそう顕著になっています。

きっと、写真の社会的存在の位置が微妙にずれてきているんですよね。

☆☆写真講義☆☆ 応用理論編
写真は芸術?
nakagawa shigeo 2004
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写真は芸術?

さあ、写真という言葉と芸術っていう言葉とが並んで?ですね。
それぞれに確定した定義ってものがあるのかな~と見渡したところ、ありませんね~
明確な「芸術」という定義もいまどうなんでしょか、やっぱり不明ですね、実感です。

ここで経済システムの中での「写真と芸術」のあり方から、
「写真は芸術?」っていうことを捉えていければな~と思います。
写真が消費対象になり、芸術が擬似貨幣対象になることで、
経済システムに組み込まれるとしたら、写真が売買されることで芸術作品になれる!?

写真が美術館にコレクションされ、オリジナルプリントという考えが出てくるのは、
けっこう新しいことです、わが国ではだいたい1980年前後だと認識してます。
四半世紀25年ほどですね、経済構造的には高度成長期です。

ここでは写真の本質?とか芸術の本質?とかの議論でなしに、
商品として捉えてみるなかでのあり方を想定しています、念のため。

平面作品の芸術作品化をみる(美術館がコレクションする)と絵画があって、
その次に複製可能な版画があって、その次に写真という流れになります。
わが国の美術館で写真のコレクションがはじまるのは1980年代後半です。
(米国での流れが遅れて定着するパターン)
写真専門美術館ができるのは1990年代です。

一方美術界でも変化がおこってきます。
美術家がカメラ装置を使って作品を作り始め1970年代に表面にでてきます。
美術の側からの写真へのアプローチ、写真の側からの美術へのアプローチ。
こういう流れが1980年代に顕著になってきたように解釈しています。

そして現在、写真は芸術かどうかなんて議論そっちのけで、写真が撮られていますね。
どんどん雑誌メディアやwebメディアのなかに浸透していますね。

さて、こういう観点にたってみて、タイトルにした「写真は芸術?」っていうこと自体、
まだ有効なことなのか、すでに無効な議論なのか、という議論からはじめないとね、
いけない時代にさしかかってきてるのかな~なんて思っています(笑)


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