中川繁夫の記録

中川繁夫のブログです。

2019年10月

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今日の音楽はベートーベンのピアノソナタ、バックハウス演奏のもの。
1番から流していて、いま10番の演奏です、パソコンのiTunesから流れてきます。
写真はおととい、ギャラリー176で鈴木郁子さんの個展、オープニングパーティー。
鈴木さんは小説と写真の両刀使いで、すばらしいなぁ、と見とれていました。

まあ、ぼくも、それみたいなことやってるから、共通項でクロスした感です。
写真はランドスケープ、風景ですが、しっかりした撮り方で、これ、見惚れます。
参加させていただいて、とてもうれしい限り、フェス友の仲宗根さんとも話をしました。
ギャラリー運営の友長さん、西川さん、招待いただいてありがとうございました。

杉さんが来てらしたのに、このまえ会ったから、あまりしゃべる間がありませんでした。
杉さんには一昨年秋から昨年春まで、ワークショップ会場を提供していただきました。
尼崎でスペース「アルナイル」を運営されていて、そこを提供していただいたのです。
みなさんには感謝するばかりで、ほんとに感謝、感謝、感謝、です、ありがとう。

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ギャラリーDOTで始まった辻中育子写真展「Small Talk」を観ました。
辻中さんの久々の個展で、これまでの成果を越えた写真群ですね。
ヒト個人が個人を主張してもいい時代になって、個別が尊重される時代です。
いろいろな生き方があって、その生き方が表に出ても許容される時代です。
個人は個人、それぞれの生き方があり、感覚がある生き物です。
作者さん自身の生き方と、それは重ね合わされながら、対象化されたのか。
テクニックのことはともあれ、人生への真摯な向き合い方に、感動します。

33人の方と面談して、写真を撮った辻中さんは、セルフポートレートも並べてる。
撮られたひとは、本人含め、知り合いばかりといいます、それぞれに訳ありひとらしい。
江成さんの花嫁のアメリカ、土田さんの原爆の子ら、スタイルは似た感がします。
時代のなかで、その時代の底流のテーマを表出させたとすれば、辻中さんは難民表出。
こころの難民といえばよろしいか、現代に生きるひとが抱える心の置き場所にて難民。
米田さんはジャンル難民という言葉を紡がれましたが、辻中さんの場合はこころ難民。

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<フォトクラブ京都10月例会の案内です>
2019年11月例会は、11月16日(土)午後2時~5時です。
フォトクラブ京都の例会は月一回、第三土曜日に開催しています。
時間は午後2時から5時と予定しています。
場所はアマノコーヒーロースターズさんのテーブルです。

巷のフォトクラブ(写真倶楽部)と枠組みは同じです。
内容は、ワークショップ形式で、表現の内容を話し合います。
撮影技術や制作技法の研究だけでなく、現代の潮流を話題にします。
参加される個人が、自立していけるクラブを目指しています。

内容の目的は、現代を表現する各自の方法を導き出すことです。
ただいま新規会員を募集しています。

詳しいことは、お問合せください。


開塾場所は<アマノコーヒーロースターズ>です。
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F

<問い合わせ先>
☆主宰者中川シゲオへお問い合わせください。
facebook:https://www.facebook.com/sense.nakagawa

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先日、姫路城へ行き、昨日は京都国立博物館へ行きました。
城では天守閣のてっぺんまで上がって下界を見下ろしました。
博物館では三十六歌仙のことを少し認識させてもらいました。
歴史の中にそびえるお城、歌人たちをまとめた巻物、ああ、歴史ですね。
なにか混沌としている自分がいます、とらえようがなく虚しい気分があります。

人間の営み、成されてきた文化遺産というものを見るにつれ、虚しくなる。
どうしてだかわからないけれど、自分の気持ちにしっくりこなlくて違和感がある。
波間に浮かぶ小舟に乗っている感じで、難破する直前のような感覚ですね。
わけのわからないことを、書いていても、どうしようもないのだけれど、です。
今、いま、現在、ひとり漂っている自分、ああ、どのように表現すればいいのか。

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どこまで開示してもいいのかわかりませんが、これはある写真展の壁面です。
スマートフォンが並べられて、スマホ写真が画面に現れてきて、スライドします。
新たな壁面の展示方法としてあらわされている形態ですが、展示の変化です。
もう少し述べれば、映っている被写体は、写真展の作者本人のセルフポです。
携帯アプリで、変容させることができるとして、若い女子が好んで使って表現する。

進化といえばカメラで撮った写真を見る道具としての進化があって、スマホ。
デジタルで制作するようになった写真イメージだから、デジタルにあったパネル。
紙に焼く、なんて言っていたけれど、プリンターでプリントする紙媒体での写真。
それが液晶パネルでよろしいのか、紙ではなくいてパネルに映し出す方法です。
いまに始まったことではなくて、デジタルが普及してくる段階で、出てきた展示です。

道具としてだけではなくて、撮られる内容、その内容を支えるコンセプトの問題。
別の壁面に女性器を拡大した写真が展示されているのですが、生命体の部分です。
生命体が誕生してどれくらいの時間が経ったのか、そのなかで生命体をうみだす性器。
バクテリアから派生したとされる生命体の現在形は人体の性器として存在します。
もうひとつには、生命体の感覚、見えないもの見ようとした能力の現在があります。

目に見えるものしか写真にできないが、目に見えないものも幻のごとし在る。
この在るは存在する目に見えるものが在るのであって、目に見えないもののありか。
脳の中で立ち昇るイメージということになろうか、幻視するイメージでしょうか。
ひとはこの幻のイメージを視覚化しようと試みているんだと思えます。
まさに芸術表現の一つには、この試みがあるようにも思っています、神の存在とか。

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外食、食べ物の写真になりますが、これは或る喫茶店のモーニングメニューです。
消費税が10%になって、このモーニングの値段が20円アップしておりました。
といいながらも贅沢して、友との朝ミーティングには、これを注文して食べます。
見た目にきれいだし、朝の光が入るテーブルに並ぶと、それだけで美味しいです。
トーストと、ヨーグルトと、オレンジジュースと、ホットコーヒーがついています。

消費税の分が2%値上がり、というより、実質的にはもっと値上がりしています。
さんまの缶詰など、ひところの倍の値段で200円ほどしています。
毎日のように観察も含めて生協へ買い物についていきますが、少しづつの値上げ。
注視していないと、巧妙に値段が上がっているから、わけがわからなくなります。
値引きの品物を見つけては買っていて、生活防衛しているところです。


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うなぎ丼、これは回転すしのくら寿司が提供しているうなぎ丼です。
うなぎが二枚重なっているやつです。
値段は、千円近くしたと思うけど、安いといえば安いです。
国産は高いけど、外国産は安い、スーパーの店頭で売られてるうなぎのことです。
まだ産卵させての養殖はできないといってるから、稚魚は同じだと思うんですが。
養殖の仕方に差異があるのか、餌になにかを混ぜて、太らせるとか。
細かなことはわからないけれど、生産管理されて出荷される、というのでしょう。

こうしてみてみると、売られている食品というのは人間によって管理されていますね。
加工品ではなくて、ありのままの形をした魚介類、野菜類、肉類、管理されてるねぇ。
ぼくなんかは、自然のままがいい、と思うけど、これはコスト高になるんでしょうね。
食料品なんて、大手企業に握られているアグリビジネスに、対抗できないんですかね。
そんなに悪徳業者ではないと思いたいけど、なかなかカモフラージュしてると思えます。
愚痴いっていても仕方がなくて、じゃあ生産するかといっても、ままならないです。
現代の食の現場を、表現として、レポートしていく必要があるんじゃないですか。
京都アグリネットHP

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王将のチャーシューラーメン、これはおいしい、こってり味でした。
あんまりラーメンは食べないままにそこそこの年齢まできて、最近、よく食べます。
食文化といえばいいのでしようか、ラーメンおお流行りの日本国ですね。
むかし、母親が連れてってくれた大石橋のラーメン屋、四条大宮の京一は今もある。
東京にいたころ札幌ラーメンとかの店ができて、すり鉢みたいな丼で食べた記憶。
いずれも半世紀以上もまえの話ですが、最近に戻して、天下一品か王将ですね。
上牧の希望軒へたまに行ったら、チャーシューラーメン、格別においしいです。
コレステロール値が上がるのも無理ないなぁ、と思いながら、これ、書いています。

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令和元年10月2日、最近、和暦を使うことがままあります。
自分のなかで、何かが変化してきて、新しい年号になって、使いだしました。
暦ひとつ、これも文化のなかの、ひとつの象徴だと思って、自己表出です。
現代表現研究というのがテーマですが、イメージ的に現代っぽくないですね。

何年か前にアイフォーンで撮ったお神楽を舞う巫女、北野天満宮、です。
最近、自分が、自分のなかで成立する枠組みを、よくイメージします。
記憶という枠組みは、自分の視覚体験の追体験に、感情を伴わせます。
懐かしい、身悶えさえ伴って、生きている身体を意識します。

戦後生まれの戦後育ちで、受けた基礎教育に、国家観とか道徳はなし。
いいのかわるいのか、ある特定の時期の特定の教育内容だったのではないか。
自分では、いつも枠を壊してきた感覚がありますが、この感覚は反抗、虚しいです。
拠って起つ思想の根拠を、どこに置くのか、なんてこと考えたけど、感情は虚しさでした。

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