☆フリースペース聖家族とはどんな場所だったのかな。
(2009年5月に執筆の文章)
聖家族は1979年12月、中川繁夫の写真展「ドキュメント釜ヶ崎」の展示会場となった場所です。
河原町蛸薬師のメインストリートの裏に当時の先進的若者が集まるパブ(飲み屋)がありました。20㎡前後の空間でした。その場所を写真展やレクチャーや公開討論会などに使うスペースとして開設したものです。
中川繁夫の釜ヶ崎写真展が2回(79.12&80.3)と4月~7月閉店までの4ヶ月に写真展3回、ビデオ上映2回、それに音楽ライブや討論会などが開催されました。
しかし1980年8月場所代の捻出が不可となり閉鎖せざるを得なくなり開始から約半年でフリースペース「聖家族」を休止せざるを得ない状態となりました。
2004年4月、ヴァーチャルサイトに綜合文化研究所が設立されて、そこで提案している「カフェ&プレス」の原形となるものでした。
フリースペース「聖家族」での催し
☆聖家族でなにがあったのかな。
・写真展
・ビデオ・コミュニケーション
・音楽ライブ
・討論会
☆聖家族で開催された写真展等の具体的内容を示す現存資料はペラの「フリースペース聖家族通信」1号~5号(3号なし)までが保存されています。
フリースペース「聖家族」と釜ヶ崎の写真群
1979年12月「聖家族」において中川繁夫写真展「’79 釜ヶ崎」が開催されました。この年の夏、中川は釜ヶ崎三角公園で青空写真展を開催して労働者から好評をうけていました。そのとき展示された写真約300枚を聖家族の壁面・天井一面に展示するという内容のものでした。
聖家族はその当時のヒッピー文化の流れを汲む場所だったように捉えています。
聖家族主宰者石山昭氏と議論を交わしたことはありませんが、そのように理解しています。
当時、マリファナ裁判支援をおこなったり暗黒舞踏の理解者だった石山昭との出会いにより70年以降に起こってくるいくつかのムーブメントと併走していく体制が整いつつあるとの希望をもっておりました。
釜ヶ崎という労働者の町の実情を明らかにしていく写真と文章作業の道筋に、聖家族の空間がありました。
時代を共有するなにかが感じられて、聖家族主宰者石山昭氏と意気投合して、ここ「聖家族」から、人間の解放空間を創りだそう、というようなはなしを交わした記憶があります。
自主運営スペースがほしい、というインディペンデントの若手写真家たちの夢想を実現化しようとの試みを、聖家族において具体的に進めていくなかで参加者を呼びかけましたが、小さな難癖をつけるばかりで結局、既存の自称写真家たちの参加はありませんでした。
夢を語ることと実現させることの乖離を味わった最初であったわけです。
そういう環境でしたが興味をしめしてくれる若いひとたちのグループができつつありました。いくつかの写真展の企画とビデオアーティストの企画が実現していきました。
フリーペーパーとして「フリースペース聖家族通信」(映像情報の前身)が手書きコピーで発行されはじめましたが’80年8月、場所の更新契約に際しての資金調達ができないままにいったん休止に入りました。(結局再開できなかった)