1980年前後、若い写真愛好者たちの間で、自主ギャラリーを持ちたいという願望がありました。此処では、この願望について、少し書いてみたいと思います。この願望が起こった原因というか、環境について、関西では1980年を軸にして、中川の記憶を基にして、起こったことを記述していこうと思います。自主ギャラリーは自主メディアとも置き換えられるかと思います。この自主メディアというときには、いまはネットがありますが、1980年当時は、出版物とギャラリー展示の方法がありました。出版物とはいっても印刷するわけですが、印刷は印刷会社に委ねないとできなかったところです。まだ一般のところでは、ワープロがなかったし、プリンターもなかった、そういうころです。自主メディアを思って、自主出版となると、ガリ版刷り、湿式コピーでコピーして帳合して本にする、これにもそれなりの設備がいりました。ぼくの発行による「映像情報」の2号までは手書き、タイプライターを使ったのは3号から、原稿を輪転機で転写して印刷する、というのがオフィスなどでは使われていました。まあ、こういう時代でした。

 ぼくは文学系できましたから、1980年を越えたところからは、友達グループで同人雑誌を発行しておりました。喫茶店でミーティングをしていたし、アパートの誰かの部屋で討論じみた話をしておりました。たしかに集まってわいわいする場が欲しくってたまらなかった。写真に即してゆうと、写真を展示するにはギャラリーの壁面、ということになります。メーカーギャラリーがあります。ニコン、キャノン、ミノルタもコニカもギャラリーがありました。これをメーカーギャラリーと呼んでいますが、ここに並べるには「一定水準の写真」であることが必要でした。一定水準ということについては別に記述することになりますが、審査があり、おいそれとは写真展ができない。なによりも実験的な試みが出来ない。続々と排出される写真イメージを貼りだす空間、それを自分らの手で開設し、維持しよう、なによりムーブメントとして、文学同人が集まってわいわいしていたアパートの一室、その壁面が写真を貼りだす空間となる、仲間内ではセレクトされるが、先生と呼ぶ審査員のセレクトではない。学生運動の流れもそうでしたが、既存の価値観にとらわれない視点を、求めて、自らの発表の場を持つという流れです。

 1982年5月、大阪は長堀橋のマンションの一室に「ザ・フォーラム」をオープンさせます。ビデオグループの岡崎純と瀬川恵美、それに写真企画の中川の共同でオープンに至ります。1970年代の後半から1980年代初頭に活動していた「オン・ザ・シーン」のメンバー、それに中川繁夫、畑祥雄、ビデオの岡崎純が共同で企画、瀬川恵美が運営、マンションの家賃は、ビデオグループテレビモア、その後にはデルタが負担することで始まります。実質の関西における自主ギャラリーです。1983年の初夏、運営者瀬川恵美の自死により、閉鎖することになります。しかし、ザ・フォーラムは、参加者が共同でお金を出しあう、という形式ではなくて、ビデオグループが稼ぐお金で場所を運営するというものでした。自主ギャラリーをひとつのムーブメントとするなら、1980年代前半で、一応の終焉を迎えることになります。個人が主宰するギャラリーが起こります。東京には佐藤元洋が主宰した空間があったが、佐藤の写真展以外の写真愛好者の展示には至りませんでした。その場の管理者が写真作家である場合は、管理者の写真を展示する空間としてのギャラリーで、その周辺に持たない仲間が集まる小ボス体質のギャラリーです。フリースペース聖家族がそうであったし、写真壁がそうであったと思っています。

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