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 1982年5月がオープニングとなった「ザ・フォーラム」創設までのいきさつを語っておかないと全体が見えてこないと思います。1980年になって、テレビモアの岡崎純と話しているなかで、自分たちの作品を発表する常設会場が欲しいということになります。岡崎はビデオアーチストで、ビデオ作家たちとの交流がありました。中川の方は、若い写真家たちとの交流が出来つつあった時期で、自主ギャラリーを開設したいと思っておりました。岡崎とは「フリースペース聖家族」の創出時から懇意になりだし、写真の環境と映像の環境が似ていることの共感があり、聖家族が終わったあと、いずれ別場所で自主ギャラリーを持とうとの話を交わしていたところでした。ビデオカメラマンの瀬川は、当時には肩に担いで操作するビデオカメラで、釜ヶ崎の労働者らのドキュメントを制作していました。写真の中川とビデオの瀬川が、一緒に取材したケースはありませんでしたが、その心情を共有する感じで、信頼関係にありました。この瀬川恵美がギャラリーのディレクターを務めるということで、1982年冬頃から具体的な創出に向けて動き出したのです。

 時系列的に言うと、1981年秋に大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ大阪)の教室に「いま!東松照明の世界・展」開催のための準備会が開かれ、その場へ「映像情報」を発行していた中川も参加しました。具体的な出席者は羅列しませんが、そこにいた畑氏から「シンポジュームをやらないか」との発案を受けて、11月に京都でフォトシンポジュームを開催、図書館に写真集を、ムーブメントの動きがでてきました。この流れとは別の流れになるのですが、翌1982年早々に、ビデオの岡崎が事務所を長堀橋近くのマンションに移転させました。自主ギャラリーを開設するための場所として、セキュリティーの効いた3LDK、高級マンションの一室でした。映像情報第八号、1982年2月発行の記述を参考にしますが、「大阪・映像フォーラム(仮称)創出の動きについて」という状況文を載せています。5月にはオープニングの展覧会を開催するのですが、場の名称を「THE FORUM」とし、オープン記念イベントを組みます。オンザシーンを編集していたメンバーで新見、太田、学生だった園田、作家の高嶋のグループ展でオープンします。中川の写真展、畑の写真展、岡崎のビデオアート展、土曜日にはティーパーティーを催し、最終日曜日にはシンポジュームを開催するプログラムでした。
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